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日記3 (2015.10.30)

2015年10月30日

 シャマランという偉大な「天然」を前にどのような批評をしたところで「天然」といういかなる批評をも飲み込みかねないブラックホールを前には無力なのではないか、というシャマラン映画に向き合った時に常に覚える諦念感。今作においてもPOVやスリラーを脱構築しようなどという賢しらな意気込みは一切感じられない。肝心のオチも、オチとすら呼べないような本当に無意味などんでん返し。しかし『サイン』に見られたようなオフビート(という形容も正確なのか定かでないが)な感性が好きな向きには『ヴィジット』は文句なしにお勧めできるくらいこの作品でのシャマランはボケ倒している。この「ボケ」というのはウィットでもなければヒューモアでもアイロニーでもない、まさしく天然のみに特権的に許された「ボケ」としかいいようのないものであり、シャマランを「天才」でも「奇才」でもなく「天然」監督と形容したくなる理由はここにある。
 とにかく『ヴィジット』はとても変な映画でシャマランは本当に何も考えずに好き勝手に撮った可能性もあるが、この作品にテーマと呼べるものが存在するととりあえず仮定するなら、「本物」と「偽物」、そして両者を取り巻く「許し」という三本柱のテーマを取り出すことができると思う。「本物」と「偽物」についてはネタバレが絡んでくるのでここでは「許し」のテーマについて主に論じる。まずこの映画には主人公兄妹とその母と祖父母という血の繋がった三つの組が出てくる。この兄妹/母/祖父母という三代に跨る構造の中でとある「許し」が受け渡されるのだが、シャマランはどういうわけかラストでこの構造を脱臼させてしまう(ここで「本物」と「偽物」というネタバレ的テーマが絡んでくるのだが)。この構造の脱臼によって兄妹/母/祖父母という三つの層は厚みを失われ薄っぺらになり、さらに「許し」の受け渡しも(原理上は)なし崩し的に不可能になってしまう(ここらへん、ネタバレを避けて説明するのが難しいのだが)。しかし、実際はどういうわけか「許し」の受け渡しは(事実上は)成されているのであり、ここがこの映画の凄いところ(であると同時に釈然としないところ)と言えるかもしれない。もう少し詳しく説明すると、物語の中盤、主人公の姉は祖母から母がかつて行ったある罪に対する「許し」を引き出す。この時点で「許し」が祖母から孫へと受け渡されているのだが、オチを知った後だとこの「許し」の引き出しは原理上あり得ないことがわかる。しかし映画上では実際に「許し」の引き出しが行われている。この矛盾的事態をどのように説明するか。ここで重要な鍵となるのが主人公の姉が言う「万能薬」という言葉である。彼女の言う<万能薬>とは相手から「許し」を引き出す上での話法上のとあるレトリックのことであり、そのレトリックとは一言でいえばある固有の出来事を一般的かつ普遍的な出来事に置換することでありもっと言えば神話化でありフィクション化である(「あるところに女の人がいました…」)。そのようなフィクション化を行った上で相手にも同じフィクションを共有させ「許し」を引き出す(「あなたがもしそのような立場だったらどうしますか?…」)。この<万能薬>によって主人公は見事に祖母から「許し」を引き出すことに成功する。
 ここにはもしかしたらシャマランの、映画を含めた総てのフィクションに対するある種の態度表明があるのかもしれない。つまり、フィクションを通じて人は何かに対して「許し」を与えることができるし、もしくは「許し」を受け取ることができるかもしれない、ということである。もちろんシャマランはそんなことをまったく考えていない可能性もある(なにせ天然だし)。が、そのようなメッセージをこの映画から図らずも受け取ってしまった以上、私はこの映画に1800円払ったことに対してシャマランを「許す」ことができる、と言えなければならない。

日記2 (2015.10.1)

2015年10月1日

 雨がっぱ少女群の新刊『熱少女』を読み返すごとに、LO作家の中に雨がっぱ少女群ほど自身の中に葛藤と分裂を抱えながらもその分裂を半端な誤魔化しと共に統合せず分裂を分裂のまま生き抜いている作家が他にいるだろうかという思いが強くなる。雨がっぱ少女群が最初に世に送り出した大傑作『小指でかきまぜて』では葛藤も分裂も存在していなかった。しかし二冊目の単行本『あったかく、して』の時点で、自身の作家性とLO的萌えとの間での葛藤と分裂がすでに顕在化している。そこでは、町田ひらくフォロワー的な劇画タッチの作品といかにもLO的な記号的萌えエロリ漫画タッチの作品が奇妙にも混在している。これは単なる過渡期とかではなく、LO編集部からの抑圧が働いていて、そのことによって作家の中に分裂と葛藤を生み出したと考える方が自然である。それにしても、『真夜中の妹』や『家庭菜園』、『夕蝉のささやき』などの雨がっぱ少女群の面目躍如といえる大傑作を軒並み単行本の後ろに回して『パジャマパーティー』といった明らかに弛緩したLO迎合的な作品を巻頭に持ってくるLO編集部の作家性をまったく解さない(というより作家を食い潰す)愚鈍な感性には驚嘆するしかない。恐らくこのようなLO編集部による抑圧的で愚鈍な神経によって、雨がっぱ少女群は「何を描けばいいのか分からなくなった」と言って(『少女熱』p.79)、7年に渡る休筆期間に入るわけである。この、「描けない」という葛藤は、例えば町田ひらくのような少女に対する捻れた葛藤ではまったくなく、もっと即物的であると同時に抜き差しならない葛藤である。現に町田ひらくは初期から作風を変えることもなく、また(今のところ)変える必要にも迫られないので今もコンスタントにLO誌上に作品を掲載している。そういう意味では町田ひらくは幸福な作家である。雨がっぱ少女群の葛藤は「描く」ことを巡る、より根源的なものであり、それがゆえに彼の作品群を読む読者の視点は、その作品をまさしく筆先で「描いた」であろう作家本人の「葛藤」に常に差し戻されるのである。というかそのような視点を持ち得ない読者は端的に雨がっぱ少女群の作品群を評する資格を持たない。
 『あったかく、して』によって顕在化した葛藤と分裂は、原作者を伴った新刊『少女熱』で統合されるどころか、より深刻に、そして苛烈になっている。というもの、それまではあくまで作品間にとどまっていた葛藤と分裂は、『少女熱』ではもはや作品内部にまで侵食しているからである。そこでは一つの作品の中で、本来の雨がっぱ少女群の作風である劇画チックな作画とLO的な萌えエロリ漫画風の作画が混在しており、端的に言って非常に不安定かつ乖離した世界を形成している。例えば『博士の異常な欲情』では途中から明らかに画風が変容していくのだが、その変容が原作のストーリー(非常に稚拙でくだらない原作)上の必然とか要請によるものではまったくなく、はっきり言えば完全にストーリーから作画だけ遊離、というか乖離してしまっている。しかし雨がっぱ少女群がかつて持っていた苛烈な作家性が顔を覗かせるのもこのような瞬間なのである。すなわち、『少女熱』においては、分裂や乖離そのものが雨がっぱ少女群の作品の実存を形作っているとも言える。『少女熱』という題名はある意味で適切であった。『少女熱』においては雨がっぱ少女群が抑圧していた自分本来の作家性が一瞬亀裂から湧き上がるマグマのように顔を覗かせるのであり、そのとき読者はもはや自分がLO的萌えという微温的な空間に安住していないことを悟るのだ。

日記1 (2015.8.30)

個人的に書き貯めている日記から一部を抜粋(日記なので思いつきで書き飛ばしている部分あり)。

2015年8月30日

 ドゥルーズマゾッホとサド』読了。なんとなくだがこの本はフーコーに対する当て付けのように思われた。その理由として、まず、この書においてドゥルーズマゾッホの革新性を説き相対的にサドを貶めているが、フーコーは熱烈なサド読者であった点(高等師範学校時代のフーコーはサドの熱烈な愛読者であり、サドの愛好者ではない連中に対する軽蔑を声高に公言していたので同級生からキチガイ扱いされていたというエピソードはエリボンの『ミシェル・フーコー伝』にも記述されている)。そして、ドゥルーズがこの書の中で、マゾヒストとサディストが邂逅すると何が起こるのかという笑い話(マゾヒストを痛めつける=悦ばせることをサディスト側が拒否するであろうという笑い話)を引きながら、真のマゾヒスト(つまりドゥルーズのこと)であれば、マゾヒスト側もまたサディストを拒否するであろうと言っていること。つまり、マゾヒストとサディストは永久にすれ違うであろう、ということ。これは、一言でいえばドゥルーズからのフーコーに対する拒否=<ノン>の意思表示であろう。『マゾッホとサド』を読んだフーコーがどのように思ったか定かでないが、恐らく良い気分はしなかっただろう。そして、ドゥルーズガタリ『アンチ・オイディプス』の出版以降いよいよドゥルーズフーコーの関係は不穏なものになってくる。例えばフーコーは『アンチ・オイディプス』をセリーヌ的口調が気に食わない書物というようなことを知人に漏らしていたという(『ドゥルーズガタリ 交差的評伝』)。さらに、フーコーは「性の歴史一巻」『知への意志』を刊行しフロイト的<欲望>概念を厳しく批判したが、この批判の射程には『アンチ・オイディプス』はもちろんだが『マゾッホとサド』も当然含まれているに違いなかった。『マゾッホとサド』では<快楽>への到達を宙吊りにすることによって<欲望>を持続させるマゾッホ的な態度が称揚されていた。これらのフーコーによるDISに対してドゥルーズは直ちにアンサーの書簡を送る。『欲望と快楽』という題で後に公表されることになる書簡の中で、ドゥルーズは再びマゾッホを持ち出し「きみ(=フーコー)の言う<快楽>は<欲望>を中断させるための障壁でしかないと思う」というようなことを書く。フーコーはこの手紙に激怒しドゥルーズと二度と会わない決心をし、事実これをきっかけに二人は死ぬまで会うことがなかった。注目すべきは、ここでもサドとマゾッホの対立が問題になっている点である。サド=フーコーマゾッホドゥルーズは永遠に相容れない、すれ違いを運命づけられていたとしか思えない。後世の人間たちはとかくフーコードゥルーズの「友愛」みたいなことを口に出したがるが、そのような態度は単に偽善的だけでなく二人の間にある思想的差異を糊塗し隠蔽してしまいかねないという意味で有害ですらあるのではないか。と思った。

『リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード』私的私感

 アニメーションとは魔法である。なんという単純なアナロジー。なんという分かりやすいメッセージ。しかし、内容と形式が完全に一致したとき、すなわち、アニメーションとは魔法である、というメッセージをまさしく魔法のような完璧なアニメーションによって提示されたとき、我々はそのあまりにも単純かつ強度を湛えた真理を前に言葉を失うしかない。今どき、アニメーションに対してこれほど誠実かつ子供心を忘れずに向き合って制作している人たちと、それを支える(主に海外の)アニメファン層が存在する、という事実にも救われる気持ちがする。
 だが、それと同時に、というかそれがゆえに、このアニメにはある種の「捻れ」とでもいう他ない要素が不可避的に貫入しているようにも思える。それは、これまであまり指摘されなかった「人種」という要素である。前作の無印版の『リトルウィッチアカデミア』(以下『LWA』)では人種という要素はほとんど表に出てこなかった、というか私は今作によって何気に初めて主人公のアッコが日本人であるという設定を知った。物語中盤、パレードに向けて準備中のアッコに向かってダイアナが以下のような揶揄的な台詞を放つ。「東洋の島国から来たミーハー魔女のくせに」。この言葉に対してアッコがどのような言葉を返したのかはよく覚えていないが、それにしてもこの台詞はちょっと衝撃だった。思えば序盤に映し出される教室風景でもクラスメートに黒人の少女が混じっていたが、そのときは『LWA』がモチーフとしているカートゥーン的な意匠の一つに過ぎないのだろうとあまり気に留めることもなかった。しかし、恐らくそれだけではないのだ。監督の吉成曜含めた製作者たちは、たぶん意図的に「人種」というファクターを今作『魔法仕掛けのパレード』に忍び込ませた。つまり、日本人である我々が主にディズニーアニメからの技術輸入に拠った、すなわちアメリカを出自とするアニメーションを制作するというのはいかなる行為なのか、という所謂<ジャパニメーション>の起源と出自に差し向けられた問題意識がそこにはある。(ガイナックス時代からすでに顕在化していた)『LWA』におけるカートゥーンアニメ的な意匠も、恐らくこの問題意識と無関係ではない。「東洋の島国から来たミーハー魔女」とはまさしく吉成曜(と彼を含めた製作者たち)自身のことであり、そしてこのミーハー性を作り手自身が意識することは、図らずも<ジャパニメーション>といういささか奇形的な表現形態の隠された始原を明らかにすることでもあった。言い換えればそれは端的に言って、日本/アメリカという対立項をふたたび自分たちの中に内包させることをも意味している*1
 話を急ぎ過ぎた、いや、急ぎ過ぎていないか。話を少し変えよう。無印版『LWA』は、幼少時のアッコが親に連れられて観に行った魔女シャイニィシャリオのショーで魔法の魅力に目覚めるシークエンスから始まる。若手アニメーター育成事業『アニメミライ』に出品されたこの作品が、若手アニメーターが「魔法学校」であるところのアニメスタジオに入って修行する、という一種のアニメ業界的寓話=メタアニメとして作られたということはこれまで散々言われてきた。それでもなお、このオープニングのシークエンスに限っては、これは吉成曜の私的体験がベースになっているのでは、と思わずにいれない。吉成曜は恐らく幼少時に親に連れられて映画館でアニメ作品を、それもたぶんディズニー映画を観たに違いない。それが一種の原体験となり、吉成曜がアニメ制作を行う際に常に立ち戻ることになる定礎として機能しているのではないか(もちろん以上のことはすべて私的な妄想であり事実とは異なるかもしれない、あしからず*2)。少なくともそのように考えれば、『LWA』における日本/アメリカという分裂と葛藤がより腑に落ちるものとして理解されるのではないか。
 もう少しアニメ表現面にも目を向けてみよう。『LWA』のキャラデザは非常にカートゥーン的(『LWA』におけるカートゥーン性がもっとも際立っているキャラは言うまでもなく『魔法仕掛け』に出てくる市長であろう、というかどう見てもタウンズヴィルの市長にしか見えないのだが…)と言っていいが、例えば『魔法仕掛け』の中盤でアッコたちと悪ガキが乱闘になるシーンは、殴る蹴る等のアクションひとつ取ってもジャパニメーション的なリアリズム表現に貫かれており、アメリカのカートゥーン的なデフォルメ暴力表現とはかけ離れている。すなわちここにも日本/アメリカの分裂と混合がある。
 『Kickstarter』による海外アニメファンからの出資によって、海外のアニメファンに向けて自分たち日本人がアメリカ的カートゥーンスタイルでジャパニメーションを作る、という捻れ構造が『魔法仕掛け』でより一層明確になると同時に、吉成曜と製作者たちもそのような構造をより鮮明に意識するようになった、せざるを得なくなった。もちろん『LWA』には所謂「クールジャパン」的な驕りは一切存在しない。むしろ、唯一の日本人であるアッコは一貫して魔法学校内の落ちこぼれとして描かれていた。しかしそれでもアッコは日本/アメリカという葛藤と分裂を生きながら仲間と力を合わせてパレードを成功させる。ここにこの作品の感動がある。
 とはいえ以上に示した捻れ構造は、何も『LWA』に限った話ではなく、今のジャパニメーション全般に当てはまる普遍的な構造である。というのも、例えカートゥーン的見かけでなくとも(つまり萌えキャラ的見かけであっても)、日本がアニメーションの技術をアメリカのディズニー映画から輸入してきたという歴史的構造は不変だからである。
 急いで付け加えておけば、今のジャパニメーションはアメリカに回帰するべきだとか、海外のアニメファンにもっと媚びを売るべきだ、というようなことが言いたいのではもちろんまったくない。そうではなくて、日本/アメリカというジャパニメーションが原初において抱えていたはずの二項対立を、さも初めから無かったかのように慎重に除去=忘却した上でジャパニメーションが制作され、あまつさえそれが日本独自の文化であるかのように振る舞いしかもそれが「クールジャパン」などと海外から持て囃されているのだとすれば、それは端的に言って欺瞞以上の何物でもないのではないか、ということが言いたいのだ。そのような意味において、『LWA』はジャパニメーションの始原に立ち帰り、日本/アメリカという二項対立をふたたび自分たちの内部に取り込むと同時に、アニメーションとは魔法である、というアニメーション本来の身も蓋もないくらいの(だからこそ簡単に忘れ去られる)<本質性>を極上のエンターテイメントと共に提示し得た、非常に稀有な作品だと言えよう。

*1:この、日本/アメリカという分裂はいわゆる日本語ラップにも当てはまる。つまり、黒人発祥の音楽であるヒップホップを黄色人種である我々日本人がやるというのはどういうことなのか、という問いであり、BUDDHA BRANDやさんピンCAMP以後の日本語ラップはこの問いを中心に旋回しながら発展してきた。

*2:この文章を書く上で『アニメスタイル003』の吉成曜ロングインタビューを一応読み返してみたのだが、やはりと言うべきか幼少時のアニメーション体験については一切語られていなかった。もしかしたらある種の心理的抑圧が働いているのでは、と穿った見方もしてみたくなるが…。

アニメーション・ポリリズム

 世界はリズムで満ちている。
 例えば、自然には四季の周期があり天体には公転周期や自転周期がある。人体にはサーカディアン・リズムという体内周期がある。
 複数のリズムが同時に存在すればポリリズムが生まれる。例えば、サーカディアン・リズムが23時間の概日リズム睡眠障害患者と25時間の概日リズム睡眠障害患者が同じ屋根の下で生活するとする。このとき、当然二人の生活リズムは日を追うごとに乖離していくが、575時間ごとに束の間シンクロ=同期する(23と25の最小公倍数)。
 このように、世界は「ズレ」と「同期」を内に孕んだ複数のタイムスケールが同時進行する場である。例えば、土星の自転周期は約10時間40分であり、木星の自転周期は約9時間50分であり、火星の自転周期は約24時間37分であり(ということはサーカディアン・リズムが25時間の概日リズム睡眠障害患者は火星に移住した方が暮らしやすいということになる)……。
 同様に、アニメーションも複数のリズム=タイムスケールが同居するポリリズミックなメディアと捉えることができるのではないか。
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 上のGIF画像は、オーストリア在住の若手アニメーター・Bahi JDによる原画パート(『スペース☆ダンディ』一話)である。見ればわかる通り、各々のセル=レイヤーが微妙にずれたリズム=タイミングで動いている。このことにより化け物たちの蠢きがよりケイオティックなものになっている。
 このような技法は決して例外的ではない。例えば『てーきゅう』のOPでは「雲の動きを(原画1枚あたり)12コマ打ち、木・建物の送りは6コマ打ち、4人のスキップは4コマ打ち」(参考)という風に、総てのレイヤーのタイミングをバラすことによって音楽とのポリリズミックな揺らぎと同期が実現されているし、『アイドルマスター』シリーズではキャラクター達のダンスが完全に同期しないように微妙にキャラクター間のタイミングをズラしている。
 このような技法は当然実写映画には存在しないアニメーション特有のものであるが、このようなリズム=速度の複数性の技法を成り立たせている装置こそがタイムシートに他ならない。
 基礎的な知識を確認しておくと、タイムシートとは、各1秒24コマの諸セリー(系列)によって構成される撮影指示書であり、複数のセル=レイヤーの動き、カメラワーク、特殊効果などがどのようなタイミングで入るかわかるようになっている。ただし、ここでは議論をわかりやすくするため、カメラワークや特殊効果などの要素は省き、もっぱらセルのタイミングを指示するための装置としてタイムシートを捉えることにする。
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 上のタイムシートは議論のために簡略化されたモデルである。AセルとBセルの二つのセルがあり、それぞれのセルは等しく1秒間あたり24コマで反復する周期パターン(24fps)から成る。
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 試しに上のように原画が入るタイミングをタイムシート上に打ってみる。ここでは、Aセルは3コマ打ち、Bセルは2コマ打ちで打っている(つまり、Aセルは8fps、Bセルは12fpsということになる)。見ると、AセルとBセルはそれぞれ別のリズムで駆動しているのであるが、6コマ目と12コマ目と18コマ目と24コマ目に(つまり1秒間の間に計4回)両方のセルが同期していることがわかる*1
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 さらに、4コマ打ち(6fps)のセルを一つ加え、AセルとBセルとCセルの3つのセル=レイヤーから成る場合のタイムシートを考えてみる。この場合も、12コマ目と24コマ目に総てのセルがシンクロ=同期している。
 このように、各々のセル=レイヤーはバラバラなリズムによって動いているのだが、1秒間24コマというビットマップを総てのセル=レイヤーが共有しているため、12、8、6、という異なった周期のリズムパターンがそれぞれの秩序を保ったまま同時に存在することが可能となる。まず1秒間24コマという基底となる周期リズム=ビートが設定され、そのビートが何重にも整数的に分割されることによって複数のクリックタイムが生まれる。そしてその分割された時間は互いの公倍数ごとに同期しながら(たとえば2コマ打ちと3コマ打ちなら6、12、18、24、…が公倍数となる)反復される。
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 上のモデルは3コマ打ちと4コマ打ちのクロスリズムを直感的に捉えるために描いたモデルで、24個の点から成り、上で3ずつ区切ったのが3コマ打ちで、下で4つずつ区切ったのが4コマ打ちである。つまり、24個の点を3コマ打ちでは8等分、4コマ打ちでは6等分するということになる。アニメーションでは24による一周期だが、これを12による一周期にすればそのままアフリカ音楽におけるポリリズムの原形になる*2
 タイムシートはしばしばアニメーターにとっての楽譜に例えられるが、このタイムシート=楽譜というアナロジーは示唆に富んでいる。「ズレ」と「同期=シンクロ」を同時に内に孕んだアニメーションは、タイムシート=楽譜という計量可能なビットマップ装置にリズムを落とし込む、さらに言えば演算化させることによって可能となる。
                    ※

 トーマス・ラマールは著書『アニメ・マシーン』において、多層的なレイヤーを構成する装置としてのアニメーション・スタンドとそれを取り巻く諸処の装置(インク、セルロイドシート、カメラレンズ…)に着目し、そのような物質的な技術的集合体を横断して作用するある種の非物質的で抽象的な強度―位相を、ドゥルーズガタリの概念に倣って「アニメ機械」と呼んでいる。
 しかし、ラマールの議論は、多平面的なコンポジションを形成するアニメーション・スタンドに固執するあまり、アニメーションにおける「時間」や「リズム」という視点がなおざりにされており、そのせいでやや広がりを欠いた議論になっているきらいは否めない。
 ラマールがタイムシートという「アニメ機械」に着目しなかったのはいささか不可解と言わなければならない。タイムシートは、物質的な装置であると同時にデジタルで非物質的かつ抽象的な領域である「機械」でもある。アニメーションは、タイムシートという機械によるデジタル変換化という演算過程を経ることなしには現動化し得ない。ここから、アニメを日本中世の絵巻物に一足飛びで結びつけたり、素朴でイノセントなアニミズムに回収しようとする議論に対して我々は慎重にならなければらない、という教訓を引き出すことも可能であろう。
                    ※

 以上の議論を図式的に捉えれば、さしずめ以下のようになるだろう。

 抽象機械[リズム、分子的、死の欲動] ⇔ 表層[輪郭線、記号、表象、モル的、エロス的欲動]
 
 まず抽象的な機械の領域に分子的に蠢く複数のリズムがあり、その複数のリズムがタイムシートによる演算過程を経ることによって表層=スクリーン上にアニメーションとして現動化する。ここでの分子的/モル的という対立項は、ミクロ/マクロ、もしくは複数の局所的自我/大域的自我にそれぞれ置き換えても同じである。ちなみに、死の欲動/エロス的欲動というタームは言うまでもなくフロイトによる概念だが、ここでは『差異と反復』におけるドゥルーズによる死の欲動の定式化、すなわち、抑圧に先立つものとしての「反復脅迫」、超越論的原理としての「死の欲動」の議論を参考にしている*3
 さらに、機械―表層という位相に加えて、物語という第三の位相を考えることもできるだろう。物語という位相は、脚本などの物語―説話的装置によって生成される位相である。さしずめ機械―表層を「形式」の位相と捉えるなら、物語は「内容」の位相となるだろう。
 大雑把に言えば、これまで主流とされてきたアニメ評論は、そのほとんどが「表層」か「物語」の位相に関わるものである。ストーリーを分析し、そこから何らかの「意味」や「メッセージ性」を引き出そうとするスタンダードなアニメ評論は「物語」の位相に位置し、蓮實重彦くずれの表層批評や伊藤剛などによる漫画記号論やキャラクター論をアニメ評論に転用した評論は「表層」の位相に位置する。その他にも作画に着目した評論なども同様に「表層」に留まっている。
 表層に留まることなく、アニメーションという<出来事>を発生論的に捉える視座に立つこと。そのためにも複数のポリリズミックなリズムと様々な強度が交差する抽象機械に着目すること……。
                    ※

 以下は、影響を受けたり参考にした文章や音楽など。

 <それ>は作動している。
(『アンチ・オイディプス』ドゥルーズガタリ

 コミュニケーションの場は無数の分子的流れに貫通されており、それぞれの流れ=情報を処理する無意識的=分子的機械が並列的に、かつ異なったリズムで作動していると考えられる。会話も手の動きも視線のやり取りも、それぞれ流れのひとつだ。(……)<目―視線―目>、<相手の肩―自分の目―自分の肩―相手の目>と流れる情報は、意識的なコミュニケーションとは無関係に、バックグラウンドで高速に処理されている。
(『精神分析の世紀、情報機械の世紀――ベンヤミンから「無意識機械」へ』東浩紀

 ティポグラフィカの「訛り」や「揺らぎ」を支えるアフリカ的な要素については、これまで何度もメンバーの口から語られてきてはいるものの、まだ充分には理解されているとは言えないだろう。ティポのどこがどうアフリカなのか?(……)つんのめったり訛ったりしながら、幾層にもレイヤーされてゆくティポのメロディーやリズム・パターンは、基本となる一つのビート、曲中通して揺らぎ無くキープされている基本的なテンポのビットマップに基づくことによって演奏されており、メンバーはそのビットマップを共有することによってお互いの関係を明確に把握している。
 まず一個の巨大なビート/脈動が設定され、その脈動が何重にも整数的に分割されることによって複数のクリック・タイムが生まれる。そしてその分割された時間がそれぞれの大きさでぐるぐるループすることによって、ニ、三、六、五、七、といった異なった周期のリズム・パターンが一つの時間の中に同時に出現し、それらが互いに秩序を保ったまま、時には干渉しあい、溶け合いながら音楽が前に進められて行く。
(『ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く』大谷能生

 本稿では「原画」と対になる「中割り」については、議論の簡略化のため割愛したゆえ、必然的にコスモス的なポリリズムしか論じることができていない。すなわち「訛り」を議論から排除している。それならば、「中割り」をアニメーションにおける「訛り」と捉えてみるとどのようなことが見えてくるであろうか。今後の課題としたい。


Tipographica - 時代劇としての高速道路 Highway As A Samurai ...

Miles Davis - On the Corner (UNEDITED MASTER ...

*1:実際のアニメーションでは原画に加えて中割りが入ってくるため、このようなコスモス的なポリリズムが現れることは稀だと思われるが、ここではあくまで原理論として捉えてもらいたい

*2:参考:『憂鬱と官能を教えた学校』菊地成孔大谷能生

*3:「エロスとタナトスは、以下のように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(先験的原理としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。」『差異と反復』財津理訳p.63

白石晃士『ある優しき殺人者の記録』についての覚書

●『ある優しき殺人者の記録』は映画についての思考を迫るような映画である。つまり一種のメタ映画である。
●しかし『ある優しき殺人者の記録』(以下『ある優』)の作中で映画について言及されるシーンは一箇所しかない。(『素晴らしき哉、人生!』についてのやりとり)
●以下では、最近公開され『ある優』との類似性が指摘されるアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(以下『バードマン』)を参照しながら『ある優』の特異性とメタフィクション性について考える(以下ネタバレあり)。
●『バードマン』はそれこそ映画への言及に満ちた、すわりのよい典型的メタフィクション映画であったが、『ある優』はメタ映画というよりは、『CUBE』や『SAW』の系譜にあるような密室スリラーに一見みえる。
●『ある優』と『バードマン』はどちらも全篇ワンシーン・ワンショットに見えるように撮影編集されている作品である*1。『ある優』と『バードマン』の類似性を指摘する人のほとんどがこの点を強調する。しかし、以下の形式的差異性を無視すれば個々の作品の特異性を取り逃すことになる。
●『ある優』と『バードマン』の形式的差異性は、おおまかに二種類に分けることができる。ひとつは『バードマン』が客観的な三人称視点のショットを採用しているのに対し、『ある優』はPOVという主観的カメラによるショット形式を採用していること。もうひとつは、『バードマン』ではワンショットの経過時間と映画内=物語内の経過時間が一致していない(例えば、2時間ノーカットであるにも関わらず、物語内では3日や4日という時間が経過しているということ)。それに対して、『ある優』にあってはワンショットの経過時間と映画内=物語内の経過時間は完全に一致している(こちらのほうが普通に考えれば当たり前のように見え、『バードマン』の方が凄いことをやってるように見える)。
●『ある優』の特異性は、ワンショットの中で時間や空間が一瞬で飛び越えられているのにも関わらず、それでもなおワンショットの経過時間と映画内=物語内の経過時間の一致が完全に保たれている点にある。つまり、時空間がいくら断絶的に超越されていても、映画内=物語内では映画の上映時間と同じ86分という時間しか経過していない。
●このような特異なワンショットの経過時間と映画内=物語内の経過時間の一致という性質は、ひとえに映画内でカメラマンが持っている主観カメラの自己同一性によって担保されている。
●『ある優』の終盤、カメラを持っていたカメラマンは死ぬが、カメラは死なず次の持ち手に受け渡され、持ち手とともに時間を越える。さらにラストに至り世界線を越えるにあたってその持ち手も元の世界に置き去りにされる格好になるが、カメラだけは世界線を越え別の世界線の路上に投げ出される。時空間をどれだけ越えてもカメラの自己同一性は保たれている。
●そもそも、白石晃士作品においてPOV=主観的カメラはどのように機能しているのだろうか。
●短編作品『包丁女』は、白石作品における「カメラ」の用いられ方が短い時間に凝縮されている好例である。
 www.youtube.com
●『包丁女』において、主観カメラは男⇒女⇒男⇒包丁女という順番で次々と受け渡されていく。ここでのカメラは、或る一人の特権的なカメラマンの視点に帰属しているのではなく、登場人物達のネットワーク上に位置するある種の共同主観=間主観的な視点に帰属している。
●登場人物達の間で共有されていたカメラの共同主観=間主観性は、ラストでカメラが地面に投げ出されるに至って、物語内の登場人物達から観客である我々に引き受けられる。ファインダーを覗く者がいなくなったカメラの視点は、その形式性の純化によってスクリーンを見ている我々の視点と限りなく近づいていく。
●あるいは、カメラ自身がカメラを見ている。ともあれ、このようなカメラという形式性の自己言及的な純化は、カメラ/我々観客という視点の区別を無化してしまう境地にまで行ってしまうのではないか。
●『包丁女』と『ある優』の共通項は多い。まず、全篇ワンシーン・ワンショットで撮影されている。さらに、一台のカメラが登場人物達の間を巡っていく。さらに、ラストで映像ノイズとともにカメラの映像データが破損して終わる。
●ラストにおける映像データの破損=抹消というカタストロフィは、『ある優しき殺人者の記録』が、タイトルに「記録」とあるにも関わらずある種の反=「記録」映画であるという逆説性を指し示している。
●白石晃士監督は、一般にフェイク・ドキュメンタリーの作り手として知られているが、反=記録性という面ではアンチ・ドキュメンタリーの作り手でもある。例えば、『オカルト』ではドキュメンタリーという形式に「未来」という軸を導入することによってドキュメンタリーにおける「記録性」を問いに付した。また、『戦慄怪奇ファイル コワすぎ! 最終章』は、ネット上でのストリーミング配信という形式を採っており、従来のフェイク・ドキュメンタリーにおけるファウンド・フッテージ物とは様相を異にしている。
●映像記録が抹消されて終わる『包丁女』また『ある優』と、ストリーミング配信という形式の『コワすぎ最終章』に共通するのは、ドキュメンタリーの「記録性」に対して「一回性」を志向する姿勢である。白石晃士は『ある優』の台本冒頭の言葉に次のように書き記している。

映画のラスト、劇中の世界ではこの映像が記録されたデータは破損して消滅する。観客が見ていた映像を劇中の人々が目にすることは永遠になく、全てが「無かった事」になる。だが、映像と音は、スクリーンのこちら側の世界、つまり観客の脳内にだけは残る。

●ここでは、映画とその<外部>について語られている。映画内における映像データの消滅という出来事は、『ある優』においては映写の終わりと一致している。言い換えれば、カメラが回りカメラがストップするまでの一回的な出来事がノーカットで映し出されるこの映画の形式は、始まりと終わりを観測する立脚点である映画の<外部>(=つまり観客である我々)に立って初めて看取しうるものである。『ある優』においては、内容ではなく形式そのものが<外部>、ひいては映画とは何かという問いに差し向けられている、と言っても良い。映写されるごとにスクリーンと観客の間でその都度立ち上がる有機体のような映画。

映画は、映写されて映写が終わるまでの人生だ。映写されるたびにスクリーンに新しく生まれ、映写が終わると同時に死ぬ儚い存在だ。しかし観客の脳内に映画は残り、新たな命になる。映画というのはそのような生命体である。
(『ある優しき殺人者の記録』台本冒頭の言葉)

●以上に出てきた、ワンシーン・ワンショット(ワンショットの経過時間と映画内の経過時間の一致)という形式性、カメラの間主観性という形式性、映像データの一回性という形式性はどれも分かちがたく結びついてる。そして、この3つの形式性をボロメオの環のように結びつけている結節点こそが、カメラの自己同一性であるように思われる。
●カメラの自己同一性は、一台のカメラによって総てが撮影されていること、さらには全篇ワンショットで撮影されていること、という二つの条件によって担保されている。
●しかし、『ある優』はもちろん本当にワンショットで撮影されているわけではなく、実際は55カットに分かれた断片を編集でワンショットのように見せている。ワンショット(風)映画におけるカット繋ぎという、無意識内における夢作業にも似た技法についての考察の必要性。
●白石晃士作品におけるワンショット風作品のもう一つの代表例として、『戦慄怪奇ファイル コワすぎ! FILE-04 真相!トイレの花子さん 』(以下『花子さん』)があるが、『花子さん』におけるワンショット表現が、異なる時間同士の断面、もしくは異なる空間同士の断面を半ば強引に接合させることによって、時空間に走る裂け目=断絶性を否が応でも意識させるものであったのに対し、『ある優』のワンショット表現は反対に職人芸に徹しており、カット間の断面はまったく意識されないものになっている。カット間の断面を意識させない繋ぎ方はどのようにして可能となるのか。
●秘密は、手持ちカメラを左右に振った時のブレやカメラマンが受ける心理的または物理的な暴力からカメラが大きく揺れる一瞬にあり、いわばそのような光の錯乱=壊乱の只中にカット割りが侵入してくる。「持続=ワンショット」と「断絶=カット割り」を止揚する弁証法は光の錯乱の中でのみ成立する。光の錯乱は、持続/断絶という二項対立を無化する真空地帯=臨界面において現れる、いわば<外部>の侵入である*2
●一方『バードマン』にあっては、カット割りはカメラが何気なく壁を向いた瞬間であったり、扉の前に存在する影=暗闇にカメラが入った瞬間であったりする。ここには暴力も光の錯乱もない、CGによって統制されたシームレスかつ静的な繋ぎがあるだけである。
●『ある優』にあってはカット割りは常にある種の「暴力」という形で<外部>からやってくる。しかもこのカット割りは観客に意識されないので、いわば観客の無意識下に抑圧される*3
●このように、『ある優』におけるカット割りは観客に対して外傷的=トラウマ的要素を持って働く。
●無意識下に抑圧された<外部=裂け目>はしかし常に回帰する。映画終盤に一瞬インサートされる異空間がそれではないだろうか。ここでの異空間は、いわば表象不可能な世界であって、映画の外側=外部の世界を指し示しているのではないか。
●以上のように、『ある優』は内容ではなくその形式性において真にメタフィクション映画である。『ある優』の形式性は映画の<外部>との緊張関係によってかろうじて成立している。我々は、映画が立ち現れ消滅するのを観測する地点に立つことによって、また光の錯乱という<外部>の裂け目に曝されることによって、映画とは何かという「問い」にその都度立ち戻らされる。

*1:厳密に言えば『バードマン』は序盤と終盤の二箇所にカット割りの入ったシーンがあるので全篇ワンシーン・ワンショット風ではない

*2:このような繋ぎ方を可能にする主観的カメラのあり方の重要性も考察される必要性がある。例えば白石作品におけるPOVカメラは、カメラマンの身体性と直に接続されているという意味でフィジカルな性質を強く持っている。

*3:白石作品に特徴的なカメラの映像ノイズも同じものとして捉えることが可能ではないか。カメラに映し出されるノイズはカメラに因するノイズなのか、それとも世界に内在するノイズなのか、それとも映画そのものに走る亀裂――そこから映画の<外部>が覗くような裂け目のようなものなのか

『たんぽぽの卵』試論

「この国の隅から隅まで みんなウルサイな――」

                      ∴
 
 前期~中期の町田ひらく作品においては一対一であれ一対多であれ、そこには基調となる何らかの人間関係がありまたそこから演繹される何らかの人間ドラマがあった。しかし『たんぽぽの卵』にあっては例えば中期の代表作である『お花ばたけ王朝紀』に見られるような複雑な人間ドラマは一切見られない。なぜなら『たんぽぽの卵(以下たんぽぽ)』に出てくるのは、日本各地に遍在している匿名的かつ不可視の組織――少女を犯すことのみを目的として集合離散を繰り返している共同体(作者は「NPO」と表現している)に属する無名の年寄り達であり、またそのような組織のために何処からか集められてきた漂泊の少女達だからである。この作品にはおよそ匿名的な人間しか出てこない。匿名的というのは名前があるとかないとかいった話ではなく、個々の人間が相互に交換可能であるということである。個々のキャラクター的な個性や内面性は慎重なまでに除去されているので個性的なキャラクターたちが織りなす人間ドラマといったものが生まれる余地はアプリオリに否定されている。この作品に描かれているのは、個々の主体ではなくむしろ共同体そのものである。さらに先取り的に云えば、本作品の究極的な試みは、<日本>という国家的共同体が生成してくる動的プロセスそのものを描き出すことにあった。
 
 本作品のヒロイン――毬子、もしくは「死ぬまでなんでもやっていい子」――は本人自身が「アタシは日本中のどこにでも咲いてるの」と云っているように特定の個人でもありなおかつこの作品に遍在する総ての無名の少女でもある。加えてこの両義的な少女はあらかじめ二重に排除=疎外されている。一つは皇族というアプリオリに宿命付けられた血統に因る排除である。ルネ・ジラールは共同体の秩序創成メカニズムの原初に一つの根源的な暴力を想定する。例えばイエス・キリストは共同体の内部にあって、相互暴力を一身に引き受けさせられるスケープゴートであり、この供犠=排除のプロセスによって自然状態から脱した共同体的秩序が形成される。この観点から日本における皇室という存在は日本というスタティックなマクロ共同体を維持させる第三項として機能していると捉えることができる。皇室とは日本各地に遍在するミクロな共同体のネットワークが放射状に集約する結束点でありそれ自体は空無でしかない。実際皇室は如何なる権能も持たず一切の能動性を剥奪された無個性かつニュートラルな存在(まるでこの作品に出てくる少女たちのようだ)であり、第三項排除が今も日本において現存していることがわかる。
 しかし、なおかつ少女は「辛い役目」を遂行するため寄る辺のない彷徨を義務付けられておりその意味で皇室からも排除=疎外されている*1。原初において外部に排除された者がさらに外部に排除されるという奇妙なねじれ。少女(もしくは少女達)はこのように二重に排除=疎外されているがゆえに目的地のない無限の彷徨と漂泊を宿命付けられている。
 一方でそのような漂泊の少女を受け入れる共同体もまた不可避的に危機に陥らざるをえない。何故か。それは、少女を受け入れることは一度共同体の秩序創成のために排除した<外部性>を共同体の只中に引き戻す行為に等しいからである。少女達は回帰する。例えば「最終章#1」の舞台である漁村では一年に一度海神を鎮めるための儀式を船上で執り行う習わしだが、その年の御役目を務めた毬子が船上から落下(下手落ち)したため海難事故による死者が後を絶たなくなる。しかし問題の本質は少女が船から落ちたとか落ちなかったという部分にはない。そうではなく、本来なら共同体の<外部>の存在でなければならないはずの生贄の少女が、実は日本の共同体の最も内奥の部分にあたる万世一系の血を引いている者だったというところに本質がある。同じく「11話」はダムの底に沈む予定である村落が舞台だが、ラストに至ってダム工事は無期限延期になったことが判明する。しかし村長は毬子との性交中に腹上死し共同体の危機は存続する。
 ジラールによれば共同体維持のメカニズムにおける第三項としての原初の<贖罪のいけにえ>は、やがて<儀礼のいけにえ>によって置き換えられるという。後者にあっては生贄として択ばれるのは共同体の外部にある<異人>である。例えば説経『まつら長者』ではある村に棲む大蛇にイケニエとして供されるのは、都から買われてきた少女さよ姫である。共同体の内側から犠牲者が選ばれる限り、共同体に安寧はもたらされない。<置き換え>によって供犠の暴力は遠くへ、外部へ放散されなければならない。*2
 しかし、相互暴力を外部へ放散させるために置き換えられた <儀礼のいけにえ>としての異人が、実は原初の暴力によって排除した当の<贖罪のいけにえ>の回帰であったとしたらどうだろう。ここには根源的かつ危機的な矛盾がある。つまり、<贖罪のいけにえ>と<儀礼のいけにえ>はイコールではないのか。
 このように『たんぽぽ』における総ての共同体は、二重の排除、二重の外部を内側へ折りたたみ返すようにすることによって安寧が訪れることが決してなく常に危機にみまわれながらその都度生成しなおすダイナミックな流動体のようなものとしてある。『たんぽぽ』における共同体は決してスタティックではない。このことは『たんぽぽ』の前半部に出てくる匿名的な少女売春組織のような共同体にも当然当てはまる。「7話」には船乗りたちの共同体が描かれる。彼らは本質的に流動的であり海の上を彷徨する漂泊の民である。「そんなにヤリたきゃニーちゃんよ、明日っから一緒に俺らの船に乗っか?」彼らの共同体に加わるということは住所を捨て流浪の身になることを選択するということを意味する。

                      ∴

 折口信夫柳田國男との対談で己の民俗学的探求のきっかけについて語っている。

 何ゆえ日本人は旅をしたか、あんな障碍の多い時代の道を歩いて、旅をどうしてつづけていったかというようなところから、これはどうしても神の教えを伝播するもの、神々になって歩くものでなければ旅はできない、というようなところからはじまっているのだと思います。
 (中略)台湾の『蕃族調査報告』あれを見ました。それが散乱していた私の考えを綜合させた原因になったと思います。村がだんだん移動していく。それを各詳細にいい伝えている村々の話。また宗教的な自覚者があちらこちらあるいている。どうしても、われわれには、精神異常のはなはだしいものとしか思われないのですが、それらが不思議にそうした部落から部落へ渡って歩くことが認められている。こういう事実が、日本の国の早期の旅行にある暗示を与えてくれました。
(『日本人の神と霊魂の観念そのほか』)

 少女たちには一切の能動性がない。ただひたすら年寄りたちに犯され、彷徨する。しかし何のために彷徨するのか。それは日本という境界の線を引き直すためである。少女たちの巡歴は遍在する共同体を侵し解体しながら再び生成させなおす。共同体は少女が通る度にその境界線を揺るがし、移動させ、流れさせ、溢れ出させる。少女たちの歩く道はそのまま神の道となりその彼方に<日本>が生成する。「彼方」である無限に生成する<日本>は、少女たちの旅の終わりなき過程=道そのものとして在り、またそのようなものとしてしか在り得ない。

 旅にして物恋しきに山下の朱あけのそほ船沖に榜ぐ見ゆ(万葉集巻三)

*1:ここにはオイディプス王の悲劇や旧約聖書におけるヤコブの子ヨセフの物語に共通するテーマが仄見える

*2:参考文献:『境界の発生』赤坂憲雄