町田ひらく試論

 ふとしたことで不可視の世界を幻視してしまうのではないか、という不安。初期の頃から町田ひらく作品を通底しているオブセッションはこのような種類の不安と関係している。例えば『蜃気楼回線』では間違い電話の留守録が主人公と不可視の世界を偶然に繋いでしまうことによって物語の幕が開ける。電話回線は、日常的な可視的世界がほんの些細な偶然によって不可視の世界と繋がってしまう、その身も蓋も無いほどの偶然性を象徴するものとしてこの作品の中に現れている。*1
 「トパーズ サファイア ラピス… 暗号――?」主人公は留守録のメッセージを一つの暗号として捉える。町田作品の主人公にとって、外部からのメッセージは暗号であり何かの徴候であり、それと同じように世界もまた暗号と徴候の集合として立ち現れてくる。
 「どうもオレの知らない場所で何事か楽しんでいる連中がいるらしい」これは町田作品における主人公が多かれ少なかれ共有している陰謀論的妄想の一例である。彼らは絶えず世界を二重化して視ている。世界は一つしか無いが、常に二重構造(可視的世界―不可視的世界)なのだ。パラノイア患者の脳内神経の偶然的なショートサーキットは可視的世界と不可視的世界を短絡(ショートサーキット)させる。しかし『蜃気楼回線』にあってはそれが電話回線間のショートサーキットというアナロジーによって置き換えられている。*2
 『たんぽぽの卵#7』では、可視的世界―不可視的世界という二重構造が階段の上昇―下降というイメージによって端的に示されている。主人公であるロリコンの中年男はとあるホテルの自販機売場で髪の毛に精液らしきものをつけた一人の少女を見かける。少女の髪の毛に付着した精液はここでも主人公にとって何事かの「徴候」として作動する。精液という偶然的な「徴候」によって可視的世界と不可視的世界は短絡し、主人公は少女を追いかけ「立入禁止」と書かれた札が置かれた階段を降りていく――。この『不思議の国のアリス』を思わせる物語の導入部は、しかしラストに至ってやはり『不思議の国のアリス』的な、夢からの覚醒、つまり不可視的世界からの拒否=排除によって幕を閉じる。幻視者はあくまで幻視者でしかなく、その世界に参入することは遂に許されない。「〝この子は上玉だけど、相手は僕じゃないな〟と。たぶん近い将来にセックスをするんだろうけど、相手は僕じゃない、それだけははっきりしているな、とね」という町田ひらくのインタビュー中における発言は、そのまま町田作品の中にあっても強い倫理的な掟として働いている。『秋に 雲雀は囀るか』におけるカメラマンの主人公の「何故 オレじゃないんだ」という魂の慟哭は、そのまま作者の魂の慟哭でもある。
 
 しかし町田作品を通底している世界観はほんとうに以上で見てきたような単純な二重構造に還元できるようなものなのだろうか。『秋に 雲雀は囀るか』のラストにおける主人公の「彼女の見る夢の中にボクらが映っていないのなら ボクらは黙って消え失せるしかありませんよね」という台詞はこの点を考える上で非常に示唆的である。ここでは幻視する者(ボクら)と幻視される者(少女)という本来の主体と客体の関係が転倒されている。少女を幻視しているボクらはしかし少女によって夢見られる、つまり幻視されることによってしか存在できない、という入れ子構造、もしくはメビウスの輪のような構造は、可視的世界―不可視的世界、主体―客体といった二項対立的関係そのものを無意味なものとしないではおかない。<主体>の特権的な位置を剥奪し不断に相対化させる少女という<他者>。前者は後者を包み込んでいるが、なおかつ同時に(常に既に)後者に包み込まれるようにして存在している。このような他者性を備えた位置にいる町田作品における<少女>という特異な存在について、我々は更なる思考を迫られている。

 補記:以上に記述してきた「幻視」という概念からも理解できるように、私は町田ひらく作品を、他の作家のロリコン・ファンタジーと異なる「リアリズム」的なロリ漫画とは考えていない。町田作品もひとつのファンタジーである。しかし、そもそも「リアル」とは、「現実」とはなんなのだろうか。

*1:町田作品と最も親縁的な作品としてトマス・ピンチョンの諸作品、特に『競売ナンバー49の叫び』を挙げておきたい

*2:パラノイア患者は本来無関係であるはずのものを恣意的に繋げてしまう。例えば、街を歩いている親子を片っ端から「関係している」と捉えずにはいられない妄想が産んだ作品が『漫画で見る未来の三丁目』である。不可視の関係(というよりも本当は存在しない関係)をあまりにも簡単にショートサーキットさせる、これは町田作品における常套的テクニックと云える。処女率0%の街を幻視する『大泉モンスター』も同様の系統の作品である。

エロリ漫画私感

 エロ漫画を読むという孤独な営み、容易な物語化を拒む一回性の出来事としてその都度立ち上がってくるような種類の営みの裏側には、エロ漫画を描くという、ある意味ではよりいっそう孤独な営みが存在している。それは性的なオブセッション等の精神医学的に解釈可能な地平の彼方にあり、その営みの「異形さ」が、ふとした際に我々読者の前に裸形を晒して迫ってくる。エロ漫画における作品は、そのような読者の「出来事」と作者の「出来事」の一回的な出合い頭にしか存在し得ず、またそのような出合い頭に於いて読者と作者との間で交換された「何か」を、能う限りそのまま掬い取ってみせるような批評以外に、真にエロ漫画批評と呼べるようなものは存在し得ない。

 昨今のコミックLOが、批評的な緊張度と男根的な緊張度を共に萎えさせるような、著しく強度性を欠いた作品で占められるに至った原因を那辺に求めるべきか、という問いが在る。ひとつ云えることは、昨今のLO作品の大半が、読者の「出来事」と作者の「出来事」の出会い=相剋を意図的に回避し、場合によっては圧殺するような地平の上に堂々と胡座をかくことによって成立しているということである。そのような回避と圧殺は、例えば作品内にコミックLOを登場させるという自己言及=自己客観視によって容易になるだろう。
f:id:shiki02:20131217220135p:plain
冬野みかん『Best☆position』)
 
 LOという「けしからん雑誌」を当のLOに掲載されている漫画内に登場させるという自己客観的な身振りは、エロリ漫画とそれを描く自分との距離を不断に相対化することによって、エロリ漫画が不可避的に孕み込んでいる「悪」を免罪させる。後に残るのは、読者と作者との間で共有される、ニヤニヤ笑いを伴う無言の頷き合いでしかない。此処には、読者と作者の間に暗黙の共犯関係=黙契が存在している。
 以上のような中途半端な自己客観視的戦略をさらに推し進めた例にクジラックスを挙げることができる。例えば『さよなら姦田先生』は、少女にコミックLOを朗読させることによって、いかにもなLO的ステロタイプ淫乱少女に仕立てあげる調教モノ漫画である。クジラックス作品を通底する過剰な露悪趣味=偽悪趣味の発露は、しかし己を無限に客観視=メタ視することによって、作品とそれを読む読者の「罪」を無限に浄化し洗い流す機能を果たす。この機能によって読者は何の後ろめたさも覚えず少女を強姦する漫画を消費することができるようになり、例えば東浩紀による熱烈なラブコールはそのささやかな一例に過ぎない。
 
 これら読者と作者とのナアナアな共犯関係を常に強固にするような(LO系)メタ・エロリ漫画が一方にあるとすれば、五月五日のエロリ漫画は、もう一方の極にあるようなメタ・エロリ漫画と云えよう。
 主に非LO系雑誌で活動している五月五日のエロリ漫画は、それまでのエロリ漫画における作者と読者が暗黙の前提としてきた共犯関係=コードを不断に「裏切る」ことによって成り立っている。彼によって企てられるエロリ漫画的コードの転倒は、常に周到を極めている。例えば『レイぷ。』という作品はレイプものエロ漫画における「主=男」「客=少女」という関係を巧みに転倒してみせるが、役割を交換されたキャラ同士が交わす会話の巧みさとドライヴ感は、物語開幕における叙述トリック的な巧みさと相まって一種の清々しさすら感じさせるほどだ。会話は例えばこのような感じである。少女「先っちょ濡れ濡れじゃねーか!ちんぽ触られて感じたんだろ?なあ?」男「か…感じてなんかいませんっ…!」少女「クンニなかなか良かったぞ。褒美にこのちんぽを今濡らしたまんこにぶち込ませてやるぜ」男「そんな…!約束が違います!」少女「オレは考えてやるって言っただけだぜ。このままでまんこ収まるかよ」少女「スケベなちんぽだな、オレの子宮口に亀頭がチューチュー吸い付いてきやがる」男「あっあっ動いちゃだめェ!」少女「くっ…イク…中に出すぞ!オレの一番奥におまえの濃い精子たっぷり出してやる!」男「中は駄目!赤ちゃん出来ちゃう!妊娠しちゃう!」少女「うるせえ!童貞ちんぽで孕ませるっ!!」
 男女という役割を交換しながらエロ漫画のテンプレート的会話を再演させることによって生み出されるブレヒト的な異化効果。エロ漫画というジャンルが暗黙の内に前提しているコードを暴露させる自己言及的な視座が、この作品を単なる逆レイプものではない特異なものにしている。
 しかし、コードの転倒と組み換えという理知的な操作は、それ自体実り多いものであり、また読者の知的好奇心を駆り立てるものではあっても、そこに作者の裸形の「目玉」が見えてくることは遂に無い。見る側である読者を見返すような「目玉」が立ち現れてくる或る一点=クリティカル・ポイント。読者の足元を掬い、またそのことによって不可避的に読者と作者とが裸のままで相対=相剋してしまう、そのような地点は何処に於いて見い出されるのか。

 町田ひらくの「異様さ」は、物語構造やまたその構成要素にない。むしろ、そのような物語の構造や構成要素を規定し内包する持続的緊張度そのものにある。剥き出しになった作家の精神の糸は、鋭く張りながら無限の直線軌道を描く。
 ひらく作品の少女達は一つの基本テーゼを共有している。それは、「私達は汚い爺達とはセックスしても決してお前=読者とはしない」という、恐らく永久に破られることはないテーゼである。云うまでもなく、このテーゼは身も蓋も無いような真実である。しかしだからこそ、ある生々しい強度を伴って我々読者の前に突き付けられてくる、そのような種類の真実である。ならばこのテーゼは一体何処から来るのか。

それで、いつも思うんです。〝この子は上玉だけど、相手は僕じゃないな〟と。たぶん近い将来にセックスをするんだろうけど、相手は僕じゃない、それだけははっきりしているな、とね
(『ヒロイン手帖 × 町田ひらく』)

 町田ひらくの根底に抗いがたいものとしてある「相手は僕じゃない」という、論理よりも先に世界に対する肌触りとして先取り的に捉えられた確信は、「思想」よりもむしろ不可侵の「倫理」として氏の作品の底の底に一本の緊張した糸――物語の総ての構成要素がその周りから立ち上がってくるような糸を張る。自分は女の子を抱く側なのか、それとも懊悩を抱えながら憧れだけで終わる側なのか。「本当はどちら側だったのか、答えはとうの昔に出ていたのでした。」*1
 この確信から先のテーゼまでの距離は、己の確信としての倫理、倫理としての確信を読者にも共有させようという一つの「悪意」によって一飛びに埋められる。「ぼくががまんしていることを、やってしまうやつがいることが許せない」と氏は語る*2。氏の苛烈な倫理は自然読者にも向けられる。「僕は思った。『この子(姪)にワルサする奴は殺す』許さないのでは無く『殺す』のだ。」*3ここでの町田ひらくの倫理性は「悪意」を通り越し「殺意」にまで純化している。
 『たんぽぽの卵』11話、単行本103ページに於ける、所謂「死ぬまでなんでもやっていい子」であるところの少女が我々を視る鋭い<眼>。ここでは少女を視ている我々読者を、少女が視返している。だがもちろん媚びている眼ではない。むしろ逆で、徹底的な「拒否」と「拒絶」の<眼>が在る。ここに我々は、作者そのものの、町田ひらくそのものの<目玉>を見い出さざるを得ない。
 我々は、おそらく永遠に町田ひらくが描いた二次元美少女と交わることはできない、という観念を了解するより以前に、ただ少女達の眼差しに既に射られている。ここに論理や抽象が入り込む隙はない。唯一つの苛烈な精神と、作家の目玉と読者の目玉の交差だけがある。

 時々新聞で、というか報道で耳にしますね、「~ちゃん10才が…」
 耳をふさぎたい気分です、できれば知らないままでいたい出来事です、僕の創造の中でしか起こってはダメな事です。だって現実に実行してるヤツがいるなんて…ロリコンの人達に希望を持たせてしまうじゃありませんか、僕も含めて…。
 僕は夢は売るけど希望は絶対に売りたくない。
(『青空の十三回忌』自己解説)

 夢は売るが希望は売らない、これは反転させれば、希望は売らないが夢は売るということである。しかし、それにしてもなんという残酷な「夢」であることか。我々は氏が描いた少女に指一本触れることができない。町田ひらくが完成させた「悪意」の究極が此処にある。
 ひらく作品は「夢」であるというのは精確だ、ただしその夢は「悪夢」であるという意味に於いて。

*1:『たんぽぽのまつり』あとがき

*2:エロマンガ・スタディーズ永山薫

*3:『green-out』あとがき

アニメの瞬き、それと超越論的アニメ批評

 手塚治虫がアニメに導入したリミテッドアニメーションと3コマ撮りの手法によって日本独自のアニメのスタイルが確立されたというのがアニメ史における定説だが、なぜそもそも3コマ――1秒に約8枚という少ない枚数でも機能するのか、要は動いてるように見えるのか、という問いは残る。認知科学の分野でこういう研究や考察が行われているのかどうかよく知らないが、僕が勝手に考えたところによると、どうもこの問題は人間の生理現象である「まばたき」と深い関係があるのではないか。というのも、「まばたき」という一瞬視界が暗転する、換言すればコマ落ちする現象が日常生活において平気で起きているのにも関わらず、視ている対象の運動の連続性はいささかも損なわれることがないという「不思議」さは、考えようによってはそのままアニメにおける「不思議」さとも直接繋がってくるように思われるからである。
 
 あなたがある対象――例えばボールの動きなどを追っているとき、途中でまばたきをしたとしても、対象の同一性が失われたり運動の連続性が中断されることはない(仮に対象の同一性が失われたり運動の連続性が中断されたりするならば日常生活は破滅する)。とはいえ「まばたき」は一方で視覚の運動性や継続性を中断させるかのような役割も担っている。例えば映像編集家のウォルター・マーチは、人間の生理現象としての「まばたき」を、映画におけるカットにたとえている。ウォルター・マーチによれば、まばたきは視覚的なイメージの流れを意味のある断片にカットする思考の編集行為であるという。まばたきが、目が乾かないようにするための単なる生理現象でしかないのであれば、機能的に反応するまばたきは等間隔に行われるはずであり、その間隔の長短は、湿度や温度が風邪の強さといった条件の変化だけに左右されることになる。しかし実際はそうではない。まばたきというものは、「頭の中で展開されている思考の分離作業を助長するもの、または無意識のうちに脳が行っている分離作業にともなって勝手に表出するもの、のどちらかではないだろうか」*1
 
 ウォルター・マーチは「まばたき」を映画との関係において考察しているが、これをアニメとの関係に置き換えてみるとどのようなことが見えてくるだろうか。まばたきの機能には、運動の連続性を担保すると同時に、運動を意味のある断片に編集するという逆説的ともいえる二重性が備わっていることを確認してきた。3コマ撮りのアニメーションは(なんなら単なるパラパラ漫画でもいいのだが)、このまばたきに備わっている機能の二重性をまさに逆手に取った形式ではないだろうか。3コマ撮りは、運動の情報量を断片に「圧縮」しながら、同時に運動の連続性を損なうことがないという、一種の情報のエコノミーであり、そしてそれを支えているのが人間の――つまりは視る側の「まばたき」の機能なのである。言ってみれば、映画では「ショット(1)→カット=まばたき→ショット(2)」という風だったのが、アニメにおいてはワンショットの中にいくつものカット=まばたきが存在し得る。
 
 上で考察してきたアニメとまばたきの関係性にも見られるように、アニメーションという固有の形式=メディアの可能性と限界性をとことん突き詰めたのが、アニメーション作家としての手塚治虫だったのではないだろうか。手塚治虫は漫画家であっただけに、かえって「漫画」と「アニメ」の差異について敏感であった。形式の可能性と限界性を突き詰めるということは、言い換えれば「批判的」ということであり、ここでの「批判的」というのは、厳密にカント的な意味での「批判的」である。カントにおける「批判」とは、自己自身の基盤――自己自身を成り立たせている暗黙の前提や無意識の条件を問い直す行為、つまり一種の自己―批判であり、手塚治虫はそのカント的な内在批判の方法をアニメに(ほとんど自己破壊的なまでに)適用させたという意味でジャパニメーションにおける最初のモダニストでもあった*2
 手塚治虫の自己―批判的な方法論が徹底された作品が、結果的に遺作となった『森の伝説』(1987年製作)であることは論をまたないであろう。この作品は一つの実験アニメーションであり、またメタ・アニメーションである。というのは、この作品が、アニメーションという形式が歴史の上でどのように発展してきたかということを、様々なパロディを織り交ぜながら内在的に「批判」していくというアニメーションであるからだ。第一章では、止め絵がメインとなっており、やがてアニメーションを最初期に最初期に製作したE・コールや、アメリカのW・マッケイを思わせる場面が現れる。第4楽章になると、ディズニー調のキャラによるフル・アニメーションVS人間キャラによるリミテッドアニメーションという壮大な構図に発展してゆく*3。アニメーションを成立させている「条件」と「可能性」を、アニメーション史を再構成しながら内在的に問う、というカント的な自己―批判の方法論を徹底させたこの作品は、手塚アニメの到達点であり究極であった。
 
 手塚治虫にあったのは「超越論的」な視線であり、『森の伝説』に代表される手塚アニメには、大塚英志の「まんが・アニメ的リアリズム」のような、漫画とアニメの区別すら理解できてないような、つまりは超越論的な視線を欠いてる凡庸な方法論に基づく批評によっては到底汲み尽くされ得ない(真の意味での)批評性とアクチュアリティがある。その意味でアニメ批評は未だに存在したことがない。「アニメ批評の不在」とは「アニメ批評固有の方法論の不在」である。大塚英志から東浩紀に至るアニメ批評と、その取り巻きのエピゴーネンによって再生産されてきた大量のアニメ批評は、どれも一様にアニメの「内容」ばかりを問題にし「形式」を問うことがない、という意味で超越論的な視座を欠いており、結果的にアニメ批評の方法論も確立することができなかった。要するに全くもって不毛であった。
 今アニメ批評に最も必要なのはアニメの批評ではなくアニメ批評そのものの批評、つまりは自己批判であろう。もちろん超越論的な視点を欠いている人間にはそのような自己批判も不可能なのであるが。

*1:ウォルター・マーチ『映画の瞬き―映像編集という仕事』

*2:ここでの「モダニズム」の定義は美術評論家のクレメント・グリーンバーグに依るところが多い

*3:参考文献:津堅信之『日本アニメーションの力―85年の歴史を貫く2つの軸』