読書感想文

 東浩紀の「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」を久方ぶりに読んでみた。以下は躁的な状況の下で書き殴ったメモ群から抜粋した感想のようなものである。
 東浩紀は、象徴界の権威が失効したポストモダンを、想像界に満たされた幼児退行的かつアナーキズムな時代(それこそ動物的)であるとする解釈からギリギリのところで救い出そうと腐心しているように思われる。そのために東は「エクリチュール」という概念を導入して、象徴界想像界の「あいだ」、または「目と耳のあいだの空間」などのレトリックを駆使してポストモダンを擁護しようと試みる。しかしこの困難な試みは必ずしも成功しているとは残念ながら思えない部分もある。例えば東はエクリチュールの例としてGUI(グラフィカルユーザインタフェース)を持ち出すが、これとて不可視のイメージを可視化しているだけであって、結局はメルロ・ポンティ以前への退行でなくてなんであろうか。現に東はGUIを説明する箇所で、「目と言葉、イメージとシンボル、仮想現実の虚構性を伝える情報と現実性を仮構する情報とが、ともに並んでスクリーンの上に見いだされる」(p.92)(太字引用者)と書いている。読めばわかるように、ここで提示されているシンボルとイメージの二重性は、最終的には特権的な目の隠喩に再回収されてしまっている。ここにあっては、東は近代を超克しようとしながらも未だに近代的な言説の枠内に留まっていると云わなければならない。さらにもうひとつの例として、東が日本のアニメ文化を、やはりイメージとシンボルの境界の侵犯、つまりエクリチュールの一例として提示している箇所。

オタク的往復は一般には、より杜撰に現実(アニメを絵として見る)と非現実(アニメを象徴として見る)の混同として理解される。アニメやゲーム、あるいはMUDやセラピー・ソフトといった明らかに非現実だとわかる「仮想現実」を私たちがかくも欲望するのは、むしろ、「大文字の他者」が消失し、全面的な可視性が世界を覆い尽くした結果、「見えるもの」の二重化が構造的に要請されるようになったからなのである。
 かつてイメージは見え、シンボルは見えなかった。いまやイメージとシンボルはともに見えている。ならばその両者の関係は、今度はいかなる隠喩で捉えられるべきだろうか。つまり「目」が不十分だとすれば、どの知覚を参照すべきなのか。
(前掲書p.107)

 目の隠喩でいいんじゃないですかね?などと野暮ったいことを云ってはいけないのであろうが、ここでの東は明らかに歯切れが良くないように思える。そもそも「象徴として見る」というような逆説的な言い方*1が、東の悪戦苦闘ぶりを図らずも露呈させてしまっているといわざるをえない。私は何も東の揚げ足を取って東の議論を全否定しようなどという意図は毫も持っていない。ただ、一読したときに、奥歯に物が挟まったような、曰く言い難い感触を持ったので率直なまでの感想を述べたまでである。もちろん単なる私の誤読or無理解という可能性もあり得ようが、しかしこの一種のわかりにくさが何に起因するのかを考えたとき、東が平面性(スーパーフラット)というイメージ空間にあくまで固執したことと恐らくは無関係ではないと思った。
 東も同書で述べているように、近代の哲学的言説においては「目の隠喩」と「声の隠喩」が支配的なエピステーメーであった。私はそれを視覚と聴覚の分離/分断として捉えたい。十九世紀末になると視覚と聴覚の分離は物理的な大衆メディアとして、主に「映画」と「レコード」に顕著に現れるようになる。映画はよく知られているように最初はサイレント映画として現れ、映像に音が付与されるのは1927年の「ジャズ・シンガー」の公開まで待たなければならない。要するに、初期の映画は映像のみであり、レコードは云うまでもなく音のみである、という点で視覚と聴覚の分断を体現しているメディアであるといえる。ただここで注意しておくべきは、映画とレコードが視覚と聴覚を分離したのではないということ、むしろ逆であって視覚と聴覚の分離という近代的な支配言説(エピステーメー)が映画とレコードというメディアを要請した、という点である。
 話を一旦戻すと、東が云うエクリチュールの定義であるシンボルとイメージの「あいだ」、もしくは目と耳のあいだの「空間」とは一体何処を指すのかということである。「イメージとシンボルのあいだを自由に往還するエクリチュールの存在」(p.110)という記述を見ても、東は「イメージ」と「シンボル」、「視覚」と「聴覚」という二分法は保持しつつも、エクリチュールのポジティブな定義を提示するのには躊躇しているようにしか思えない。また東はエクリチュールフロイトによる「不気味なもの」を併置している。しかし東の議論におけるこの「不気味なもの」も、不可視であった象徴的な審級が可視的なものの次元にせり上がってくる、という現象以外のことを示唆しているようには思えない。要するに、東が使用している「エクリチュール」とは、不可視であった象徴的な次元が想像的なイメージによって侵され、それがスクリーンという表面性に現前化される、つまり「再現前化」以外のなにものでもないのではないだろうか。この時点において東自身が退けていた近代主義的な「目の隠喩」がある種の特権性をもって回帰してくる。なぜこのようなことが起こるのだろうか。それは東が固執したスクリーン=表面性という装置が構造的に要請する不可避性ではないか、と私は思う。
 エクリチュールは果たしてシンボルとイメージの間、などというような安易な定義で済まされる概念なのであろうか、もっとラディカルな可能性を内包しているのではないだろうか、といささか訝しみながら東浩紀の処女作「存在論的、郵便的」をなんとなく繰っていたところ、「リズム」という言葉が目に入ってきた。東は「「存在論的、郵便的」第三章 郵便、リズム、亡霊化」において、現代のメディア環境が作り出す伝達回路が「声=フォネー」の速度=リズムにズレを孕む可能性に注目している。東はそのような、複数的な速度とリズムが衝突する伝達回路をデット・ストック空間、または郵便空間と名付けている。もちろんこの郵便空間はなんら実体的な(ユング的な)ものではない。

 速度の視点を導入することの最大の利点は、デッド・ストック空間を実体的に想定する必要がなくなることである。例えば前述のように、デリダの最も重要な手紙は相手に届かない。しかしそれは投函されてからデリダに送り返されるまでの九日間、現前しないが存在するもの(幽霊)として、二人の電話の会話に大きな影響を与え続ける。ではそのあいだ、行方不明の手紙はどこにあったのか。どこにもない。それは単に、郵便網のなかをゆっくりと循環していただけだ。
 (中略)「不可能なもの」は複数ある、と私たちは述べてきた。だがより正確には、「不可能なもの」、非世界的存在そのものはどこにもないと言うべきである。ただし非世界的な効果は存在し、それは個々の情報がもつ速度のずれにより、つねに複数的に引き起こされている。
(「存在論的、郵便的」(p.179)東浩紀

 この章「郵便、リズム、亡霊化」は奥付を見ると1996年に発表されたようである。実際、「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」も最初から読んでみると、第二回に複数の情報処理経路を通過する速度の衝突というテーマをフロイトの無意識と絡めながら言及している。この回が発表されたのも大体1997年頃だと思われる*2。現に、東浩紀は当初はリズムと速度をキー概念にしてこの連載を書こうとしていたらしいフシがある。その例証に、斎藤環との対談「精神分析の世界」では、「ぼくのもともとの着想としては、「サイバースペース」なる概念はごく単純に言うと、インターネット上にリアルタイム空間を設定することであって、これはインターネットの本来の性質とはちょっと違うんじゃないかということなんですね。インターネットはむしろ、みんながバラバラの時間で動くことを可能にするメディアで、基本的に、スペースや広場の隠喩は使えないだろう。そしてその発想は、マクルーハンのようなネット以前のメディア理論家と、ニューエイジの神秘思想から来てるわけだから、そこらへんを腑分けしておくのは必要なんじゃないかと」と発言している。
 「サイバースペースななぜそう呼ばれるか」は前期と後期に分けることができるように思える。フロイトの「不気味なもの」にSFを絡めながら複数的なリズムを問題系にしていた第1~4回までを前期、それに代わってGUIという平面性が主題にせり上がってくる第5回~10回までを後期。つまり第4回と第5回の間(年号でいえば恐らく1998年~2000年の間)に東に決定的な転回が訪れたと想定することができる。それではその転回とは東に何をもたらし、そして何を捨てさせたのか。率直に云えば、東にもたらしたのはスーパーフラットという「平面性」であり、そして捨てさせた、もしくは抑圧させたのは「リズム」である。この転回はデリダの「幽霊」や「エクリチュール」といった概念の定義付けそのものにも関わってくる。試しに2000年に発表された(つまり転回後)「スーパーフラットで思弁する」から引いてみよう。

彼(=デリダ:筆者註)の特殊な用語法では、「幽霊」とは、現前性と非現前性のあいだにある存在、イメージとシンボルのあいだにある記号の様態を意味し、また「郵便」とはシンボルの世界の機能不全を意味している。

 「幽霊」*3はもはや単なるイメージとシンボルのあいだにあると想定されている「記号」にまで単純化され、複数的なリズムもデッドストック空間も影を潜めている、いや、巧妙に隠蔽されている、という意味でこの文章は図らずも東の信仰告白となっている。東の美術界隈とのコネクションがいつ頃から本格化したのかは未調査だが、美術界のタームであった「スーパーフラット」という平面性を特徴とする概念が東に転回を要請したことは疑い得ないように思える。なぜなら、「スーパーフラット」はそもそも静的であり無時間的であるからだ。転回前の東によればエクリチュールはそれこそ時間(リズム)と切り離すことができない概念であった。

フロイトエクリチュールの舞台」においてデリダはすでに、「エクリチュールの根源的時間性」に注意を促していた。それは「差延」「空間化」の概念と等置され、円錐底面が声―意識(フォネー)により均される以前の、言い換えればDa=世界が現前性の支配下に入る以前の諸運動を指示している。マジック・メモのモデルに表されたように、フロイトはその位相にある周期の存在を想定していた。シニフィアンの平面(知覚―意識系)はエクリチュールのボードから剥がされることで、周期的に初期化される。つまりひとは「不連続diskontinuierlich」にしかDa=世界を構成することができず、そこから時間が生まれる。デリダもまたこの問題意識、Daの現前性を基礎づける周期あるいは振動というイメージを継承するが、六十六年の論文はいまだそれは示唆されるにすぎない。第三章でも少し触れたように、のち彼は七十年代のテクストでその周期/振動を「リズム」と名付け、その存在がDa'つまりシニフィアンの世界の一貫性を蝕む。……
(「存在論的、郵便的」p.326)

 東においては二つのエクリチュールがある。転回前の、リズムを内包した、いやそれ自身がリズムであるようなエクリチュール。そして転回後の、イメージとシンボルの間にある、イメージでもありシンボルでもあるような記号としてのエクリチュール。どちらが正しいかなどということは問わないようにしておこう。問題は、このような認識論的切断がどのような言説空間の布置の中で要請され、またこの認識論的切断が言説空間の中でどのように機能したのか、である。先ほど美術界隈における言説空間が東に転回を要請したのではないかと軽く示唆しておいたが、ここではもうひとつ当時のアニメ・オタク文化における言説空間が東にどのような思想的影響を与えたのかを検討しておきたい。

アニメオタクは作品世界にただ没入するだけではない。オタク的感性の特徴は、特定のキャラクター(登場人物)に対して、一方でそれが絵としてどのように描かれたのか、作画スタッフの癖から技法的細部にいたるまで執拗に詮索しつつ、他方でそのキャラクターがあたかも絵でないかのように(実在の人物であるかのように)強い感情を向ける、その矛盾する二つの態度の共存にある。つまり彼らは、描かれたキャラクターを、一方でイメージ(絵)として、他方でシンボル(人間を表す記号)として二重に処理している。
(「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」第六回p.107)

 エクリチュールの例として、オタクのアニメに対する認識を論じている箇所。イメージとシンボルの二重処理という記述からも転回後の文章ということがわかるが、問題はこのようなアニメを見るオタクの認識論的態度ではなく、むしろそのようにアニメオタクを見る東浩紀の認識論的態度であろう。このようなアニメをキャラ記号論的に論じる系譜は明らかに大塚英志斎藤環の系譜に属する。恐らく東は大塚英志の『戦後まんがの表現空間――記号的身体の呪縛』、もしくは斎藤環の『文脈病』あたりを読んでいたとおもわれる。東の「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」は、このようなサブカルチャーにおける言説空間と無関係ではない。そしてサブカルチャー言説空間に特徴的なのは、アニメを漫画の下位属性、もっと簡単に云えばアニメと漫画を一緒くたにしてしまうことである。これは後に大塚英志東浩紀を媒介経由して有名にした「まんが・アニメ的リアリズム」という呼称(もしくはイデオロギー)に象徴的に見出される。はっきりいっておくと、漫画とアニメは根本的に異なるメディア形態であり、安易な混同や比較は許されるものではない。そしてこれらの論者に特徴的なのはアニメを漫画と同じものとして語ることであり(逆ではない)、上の東の文章もその陥穽を逃れていない。

                  ∴

 もう一度考えてみよう。エクリチュールとは何か。目と耳のあいだ、シンボルとイメージの間にあるものとは何か。それはリズムである。そしてこのことは端的にアニメの中にこそ見出される。
 その前に先ほど言及した視覚と聴覚の断絶について一旦話を戻す。前述したように初期の映画はサイレントであったため、また一方では蓄音機の普及によって視覚と聴覚の分断が大衆レベルで可視化されるようになった。日本では主に大正時代がこの時期にあたる。その後映画が音を手に入れるようになるとそれまでとは逆に視覚(映像)と聴覚(音)を過剰に同期させようとする欲望が生まれる*4。ディズニーが制作したアニメーションにおいてその傾向は頂点に達する。ディズニーアニメにおける映像と音楽の完璧なるシンクロナイゼーションは俗に「ミッキーマウシング」と主に蔑称的な意味合いで云われるようになる。分断と同期、これは視覚と聴覚という二分法を固持しているという意味でコインの裏表であると私には思われる。この視覚と聴覚、イメージとパロール、イメージとシンボルという近代が生み出した二分法を採用する限り、分断の欲望と同期の欲望は周期的に巡ってくるだろう。
 この陥穽から抜け出るにはどうすればいいのか。私はそのひとつの例としてアニメーション作家としての手塚治虫の試みを参照してみたい。
 手塚治虫を、ディズニーアニメを日本のアニメに無媒介に輸入した作家と規定する、つまりディズニーアニメとジャパニメーションの連続性を説くイデオローグの言説を私は信用しない。津堅信之の「アニメ作家としての手塚治虫」にも書かれているように、手塚は虫プロ設立以前からディズニーとは一線を画した実験アニメの制作を計画していた。それは徹底的な少人数制や低予算などといった制作/経営構造方面でのディズニーとの差異がベースだったが、それが結果的に手塚アニメ、いや、ジャパニメーションという特異的な表現形態を生み出すに至った。
 それではディズニーアニメと手塚アニメの表現形態としての最大の差異は何か。私はそれを手塚が採用した3コマ撮り(もしくは3コマ打ち)という手法に見出したい。3コマ撮りとは、ディズニーや東映動画が採用していた一秒あたり24枚*5(1コマ撮り)か、一秒あたり12枚(2コマ撮り)の絵を使用していたところ、一秒あたり8枚(もしくはそれ以下)の絵を使用することである。要するに絵の動きがパカパカしてそれだけ観る側にとって絵と絵の間の隙間が意識化されるということであるが、しかしこれにはもう一つの意味がある。それはフレームレートに可変性を持たせたことだ。どういうことかと云うと、カットに応じて、または同じカットでもキャラクターの動作に応じて、3コマ打ち(もしくは4コマ)を2コマ打ちにしたり、もしくは逆に2コマ打ちを3コマ打ちかそれ以下に変えるといったことが可能になったということである。このようなフレームレートの自在な減速、もしくは加速は、アクションシーンのような細かい動作が求められる場合などある程度の不可避的要請に従うこともあれば、アニメーター個人のセンスに完全に委ねられることもある。この手塚アニメが切り開いたフレームレートの可変性はアニメ制作時に使用されるタイムシートを一瞥しただけでもわかる。複数のセリーにそれぞれ異なる間隔で穿たれた黒点は、我々にリズムの存在を示唆する。*6
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 ひとつの例を見ておきたい。上の画像は「てーきゅう」のOPである。実際の映像を見ればわかるが、雲の動きは12コマ打ち、木・建物の送りは6コマ打ち、4人のスキップは4コマ打ちでそれぞれフレームレートが設定されている*7。つまり、この一枚のカットだけで三つの異なったリズムが並行して律動していることがわかる。
 ジャパニメーションにおける複数的なリズムの衝突は、我々にイメージとシンボルのあいだという、上述の議論に重要な示唆を与えてくれるように思える。私見によれば、イメージとシンボルのあいだとは、端的に云って「リズム」のことであり、これは東が陥ったような安易な目の隠喩(つまり視覚)に回収されず、そのまま身体的なものとして「体感」され得る*8。キャラうんぬん記号うんぬんは問題ではない、アニメの構造自体がエクリチュールなのだ。*9
 東が陥った陥穽=罠は、アニメを漫画記号説的に考え、さらにスーパーフラットという絶対的な平面性が、イメージとシンボルを全的に表面上に可視化させると捉えたことに起因する。これは何度も云うように東の周囲を取り囲んでいた当時の支配的な批評言説と無関係ではない。そしてこの構造は後続のゼロ年代批評にそのまま温存される。
 結論を云うと、ゼロ年代の批評言説は「リズム」を抑圧した。いや、「リズム」を抑圧することによってゼロ年代批評を立ち上げることができた、と云ったほうが正確だろうか。ゼロ年代批評はこのような転倒と倒錯から出発している*10ゼロ年代批評の歴史とは換言して云えば「リズムの抑圧」の歴史に他ならない。そしてこの状況は今に至るまで継続している。

*1:象徴はもちろん読まれる、それか聞かれる

*2:ちなみにほぼ同じテーマをベンヤミンの「複製技術の時代における芸術作品」をベースにしながら論じた論考「精神分析の世紀、情報機械の世紀」も1996年に発表されている

*3:東は「幽霊」と「エクリチュール」を厳密に区別していないのでここでの「幽霊」を「エクリチュール」に置き換えて読むことも可能である

*4:参考文献:「アフロ・ディズニー」菊地成孔 大谷能生

*5:つまり映画と同じ

*6:参考までに、転回前の東の論考「精神分析の世紀、情報機械の世紀」には、「コミュニケーションの場は無数の分子的流れに貫通されており、それぞれの流れ=情報を処理する無意識的=分子的機械が並列的に、かつ異なったリズムで作動していると考えられる」という記述が見られる。

*7:参考:http://animestyle.jp/2012/12/06/3276/

*8:このアニメに<リズム>という概念を持ち込む視点は、アニメにおけるグルーヴ感やダンスについて考察する余地を我々に押し開くとおもわれる

*9:これは蛇足で本論とは直接的な関係はないが、画面に瞬間的に現前しているのは一枚のみであるがそこに「運動」が付加されるためには直前の一枚がなければならない。つまり「運動」は常に既に直前の一枚に依存しているわけで、これはデリダ用語で「差延」と呼ばれる概念に近い

*10:これによる弊害は、アニメを作画の観点から捉えた批評文の欠如という形で顕在化する

自殺の様式

 自殺においても様々なる意匠がある。といってもそれは首吊りであるとか飛び降りであるとかそのような外面的な様式の選択ではない。そうではなく、内的な、もっと云えば実存的な――その人間のパーソナリティと切っても切り離せない、強いられるものとしての様式である。それは自殺の動機を探るというような野暮で無粋なゴシップ的詮索とももちろん遠く離れている。自殺の結果でも原因でもない、内的なプロセスにこそ批評性が内在している。
 
 例えば芥川龍之介は事前の綿密たる用意と周囲への死後の配慮まで準備してから自殺した。その周到かつ隙のない用意と調査は一種ファナティックですらあり、またそれを通り越してユーモラスですらある。彼がもっとも恐れたのは蘇生、つまり自殺の失敗である(ここにも芥川の神経質的な完璧主義を見出すことができる)。100%死ぬ方法を知り得なければ無い。まず芥川の学究心は当時の薬品学や毒物学の博捜といった形で現れ、まさに博覧強記の作家芥川龍之介の面目躍如といった感さえある。そして彼の貪欲な知識欲と向学心はやがて薬学という領域を逸脱しはじめ最新の化学兵器にまで食指を伸ばしていく。例えば彼が生前書き残したメモには次のように書き記されている。(以下山崎光夫「藪の中の家」から孫引き)

○酸化炭素CO.2パアセント。薔薇色になって死ぬ(窒息)。
○Mustard-gas(Iprelite).lawisite.
○五六時間後より、目とのどとひふ、涙、嚔、鼻汁、咳、血へど死ぬ。八時間後皮膚障害、栗粒位の火ぶくれ(火傷の如く痛む)、一銭銅貨位になる。ニ日乃至四日死ぬ。5%~15%重症(六箇月)。
○Sneezing Gas,Vormitting Gas.三十分間戦闘を失ふ。(1000分の1あると。)
○Phosgene(瓦斯)(肺気腫)より染料を作る。(孔雀石。green.青、黄)平気で作る。死ぬ人かへり見られず。European War以来大変に重大視さる。○酸化炭素と酸素とにてphosgene.

 世界史において化学兵器が最初に大量使用されたのは1915年、第一次世界大戦におけるイーベル戦線でのドイツ軍による塩素ガスの使用だとされている。メモ中にあるMustard-gas(Iprelite)もPhosgeneもイーベル戦線で使用された毒ガス兵器である。Lewisiteはインターネットの某百科事典によると糜爛性毒ガスの一種で1918年ごろ米国の化学者W=L=ルイスが発明し1920年代にアメリカ軍によって実験が行われたらしい。要するに芥川は当時の国際的な化学兵器の研究内容をほぼリアルタイムで(どういうルートを使ってか)入手して自殺に応用しようとしていたと思われるわけで、これはもはやひとつの学、「自殺学」を打ち立てようとしていたのではないかとすら思えてしまう。芥川の学究心の前では完全自殺マニュアルすら霞んで見えてしまう。
 しかし実際の自殺の決行では無難に(?)青酸カリを使用したのだが。*1

 三島由紀夫はよく知られているように自己の徹底的なる演劇化のもとで割腹自殺を遂げた。これはあまりにもよく知られすぎているので割愛する。
 
 川端康成は前者のいずれにも属さず、ふと思いついたかのようにガス管を咥えそのまま死んでしまった。もちろん遺書もなく、机の上には書きかけの原稿があるだけだった。そこには芥川的な用意も調査なく、また三島的な自己演出化も微塵も見られない。要するに容易な意味付けを拒む、であるが故に上記の二人のいずれの様式にも当てはまらない。いやむしろ様式そのものを拒否するような逆説的な様式の自殺であるといえようか(もちろんこのような意味付けを拒否する自殺は、例えば臼井吉見「事故のてんまつ」のような過剰な意味付与への欲望を引き出すことも往々にしてある)。

 以上のように3人の自殺を概観しただけでも三者三様、3つのタイプの自殺があり、そのうえよく検討すれば各々の自殺の様式が彼ら自身の小説にも反映されていることすら明らかであろうが、さらに4人目としてここに永井荷風を加えたいと云ったら訝しむ向きもあるだろうか。なるほど確かに永井荷風は自殺者ではない。しかしその孤独な死は、それこそ自身の死(あるいは死体)をひとつの作品として図らずも提示してしまっている、という意味で荷風の死は自殺的であり、またある種の批評誘発性を荷風の死体は纏っている。現にフーコーは自殺とは自身を作品化するプロセスであるというようなことを云っている。(詳しくはこの記事を参照)
 荷風は死後検死写真を撮られて(当時の孤独死は変死扱いだったのだろう)その写真を週刊誌に載せられている。その死体写真について、これもどういう具合の因果か川端康成がコメントを寄せているのだ。(以下江藤淳「ある遁走者の生涯について」からの孫引き)

西洋の個人主義、自然主義をもっとも意志強固に執拗に、荷風氏は貫いたけれども、西洋のそのたぐひの芸術家のやうに、読んで寒気がするほど凄い作品は荷風氏にはないだらう。死の前の無意味に近い日記がむしろ不気味であらうか。死ぬ前のドガは盲であったが、指先きの手ざはりだけであの踊子の彫刻をつくった。ドガの冷い絵にも、言い知れぬ哀愁と憂鬱とはただよってゐる。しかし日本人の荷風氏らのそれとはちがふ。いやな見方だけれども、それにやや近づき迫らうとするのは、荷風氏のうつぶせの亡骸の写真のやうなものではないだらうか。
川端康成「遠く仰いできた大詩人」)

 評者の江藤淳はこの川端康成の文章を荷風に対する「辛辣な批評」と受け取っているようだが、私はむしろ荷風への最大の賛辞として読んだ。荷風は死体となって輝き出す。そこには三島のような自己演出化も政治的イデオロギーによる糊塗もない、真の芸術としての香気がある。

*1:参考文献:山崎光夫「藪の中の家」

仏界易入、魔界難入

 人体欠視症――ふとした拍子に相手の体が透き通るように見えなくなってしまうという奇病に罹った木崎稲子は入院するために訪れた常光寺の境内にある気ちがい病院にて西山老人と出逢う。

 たとえば、病院の主のような西山老人は、本堂の畳に紙をひろげて大きい字を、よく書いている。白い日本紙や唐紙が、この老狂人の手にはそうはいらないので、古新聞紙に書いていることが多い。
 (仏界易入 魔界難入)書く字はたいていこの八字である。西山老人自身はこれを、
「仏界、入りやすく、魔界、入りがたし。」と読んでいる。老人は白内障で目が霞んでいるが、その書は力がある。俗気、匠気がない。しかし、狂気はあるか。騒がしい字ではなく、気ちがいらしい字でもないが、よく見ていると、狂気あるいは魔気がひそんでいそうには思える。西山老人は人生のある時に、魔界にはいろうとつとめて、魔界にははいりがたかった、その痛恨が、狂った老後の字にもあらわれているのかもしれない。
 (中略)気ちがいたちも西山老人をはばかるけはいがあって、話しかける患者はすくない。もし、木崎稲子が老人に近づくとなると、稲子は声がきれいだから、老人をよろこばせるだろうか。しかし、おかしなことがおこるかもしれない。人体欠視症の稲子は、西山老人のからだが全く見えなくて、ただ、筆が動いて(仏界易入 魔界難入)と字を書くのが見える。そんなことがないとはかぎらぬ。そして、稲子に老人の姿が見えないで、筆と字とだけが見えると、老人にわかれば、あるいは西山老人は、今こそ自分が魔界にはいれたと、欣喜勇躍するのではないだろうか。
(「たんぽぽ」川端康成

なぜ、稲子に老人の姿が見えないことが、即ち老人が魔界に入れたということを意味するのか。それは不可避的に川端康成自身の視線の在り方、さらに云えば「目玉」に直接関わってくるように思われる。
 川端康成の眼力の強さは、泥棒や貸家の大家の取り立てをひと睨みで撃退した等の逸話とともにしばしば言われてきた。しかし、対象を見つめる行為は、必然的に対象に見つめ返されることを伴う。

 娘が突然、首を真直ぐにしたまま袂を持ち上げて、顔を隠した。
 また自分は悪い癖を出していたんだなと、私はそれを見て気がついた。照れてしまって苦しい顔をした。
 「やっぱり顔を見るかね。」
 「ええ。――でも、そんなでもありませんわ。」
 娘の声が柔らかで、言うことが可笑しかったので、私は少し助かった。
「悪いかね。」
「いいえ。いいにはいいんですけど――。いいですわ。」
(「日向」川端康成

 川端康成とて自意識はやはり存在したし、それを抹殺することはできなかった。川端が「傍らにいる人の顔をじろじろ見て大抵の者を参らせてしまう癖」が付いたのは、幼少の頃の盲目の祖父との生活に起因するという。

 祖父は何年も同じ部屋の同じ場所に長火鉢を前にして、東を向いて坐っていた。そして時々首を振り動かしては、南を向いた。顔を北に向けることは決してなかった。ある時祖父のその癖に気がついてから、首を一方にだけ動かしていることが、ひどく私は気になった。度々長い間祖父の前に坐って、一度北を向くことはなかろうかと、じっとその顔を見ていた。しかし祖父は五分間毎に首が右にだけ動く電気人形のように、南ばかり向くので私は寂しくもあり、気味悪くもあった。南は日向だ。南だけが盲目にも微かに明るく感じられるのだと、私は思ってみた。
(同上)

 川端はこのとき稲子ではなく西山老人の位置にいる。そしてそのとき恐らく川端は魔界にいたのだ、いや、もしかしたら川端の祖父も。少なくともそこには魔界的な「場」が形成されていたに違いない、というほとんど直感にも似た確信を私は抱く。

                  ∴

 「苺ましまろ」は<魔界>である。

 この漫画を読む楽しさは、勝手に遊ぶ小動物を眺める気分に近い。主要な男性キャラクターは存在せず、しかも少女たちの内面描写が極めて薄いため自己投影にはかなりの努力を要するだろう。(……)読者はただただ可愛い少女たちの無限に引き伸ばされた日常を覗き見するだけだ。構造的にいえばピープ・ショウであり、読者の立ち位置はまさにササキバラゴウの「視線化する私」である。(……)「私」は二重三重に守られた「視線」として、幽霊のように「女の子で一杯の世界」を彷徨い歩く。これは言い換えれば不能者のハーレムである。
(……)もちろん、『苺ましまろ』は通常の意味でのポルノグラフィではないし、エロ漫画でもない。しかし、逆説的に言えば、不能であるが故に、無限遠に止められた欲動の「寸止め」であるが故に、極めて猥褻なのである。
(「エロマンガ・スタディーズ永山薫

 上記の引用の、「視線化した私」と、「苺ましまろ」はエロ漫画である、という指摘は示唆的であり興味深い。これを例えば下記の引用と照らし合せてみると、苺ましまろ川端康成の親近性は明らかになる。

 京の祇園で、舞妓を十何人か集めて、お座敷の一方に一列をならばせる。川端さんは、彼女等の一間半ほど手前に正坐して、あの目で舞妓の顔を、姿を、一人ずつ順々にながめてゆく。視線が、彼女等の一人のこさずを充分見きわめると、またもとに戻って、順から順々に目を凝らす。その間、何も言わない。娘たちもだんだん、不気味になって来る。しんとしてまう。やがて、二時間か三時間かの、重苦しい沈黙が積み重なる。と、川端さんは急に微笑をうかべて、
「ありがとう。御苦労様。」
(「川端康成と女性」澤野久雄(福田和也「日本人の目玉」からの孫引き))

 しかし「苺ましまろ」をエロ漫画とするのはいいとしても、「不能であるが故に、無限遠に止められた欲動の「寸止め」であるが故に、極めて猥雑な、不能者のハーレム」とする論旨はどうだろうか。そもそも不能者には欲動がない。それに(たとえ欲動があったとしても)、「不能者」というエクスキューズの裏側に「無限遠に止められた寸止め状態の」勃起した男根を誇示する態度は、単純に欺瞞でしかないのではないか。そしてこの欺瞞には、常に「射精」という特権的な「終わり」が、近代的な弁証法に裏付けられた目的論的思想(さらにはそこからの発展段階としてのセカイ系的な終末思想)が、裏面のようにべったりと貼り付いている。よって、ここではあえて福田和也川端康成論「いつでもいく娼婦、または川端康成の散文について」に倣って、「苺ましまろ」を、常にイキ続ける、射精を恐れないエロ漫画として定義付けたい。それは特権的な「終局=射精」という弁証法的なコードに支配されない、始めもなければ終わりもない「純粋持続」としての、言い換えれば「魔界」としてのエロ漫画を提示する試みにもなろう。
 常にイキ続けるエロ漫画とは一体なんなのか。それは無限遠に止められた寸止め状態の、つまり無射精のエロ漫画を安易に裏返しただけではないのか、という疑問はさしあたり宙吊りにしておいて、ひとまず従来のエロ漫画における前提=お約束を再確認しておきたい。
 エロ漫画をエロ漫画として成り立たせているアプリオリな条件、それはもちろん終局における「射精」に他ならない。エロ漫画は云うまでもなく使用者の身体と、フィジカルかつリズミックに同期する、しなければならない。これはエロ漫画におけるコマ展開のタイム感と、使用者の身体のタイム感が同期するということであって、エロ漫画読者なら日常的に体感していることだからわざわざ説明するまでもないと思うのだが、まあいい。問題は、使用者の使用意図からいって、漫画内における射精は終局の一回のみでないと、都合が悪い、ということである。なぜなら射精が何回にも分かれて分割されると、身体とうまく同期できなくなるからだ。もちろん射精が二回や三回に分かれているエロ漫画はたくさん見られる。しかし、一回目は手こきorフェラで二回目は本番の膣内射精、というように、やはり最後の射精に特権的なウェイトが置かれていることは否定できない。これは取りも直さず、否定性(=寸止め)が止揚(=射精)によって克服されるという近代的な弁証法システムそのものを指し示している。エロ漫画は、極めて近代的なモデルに支えられたメディアだと云える。
 とは云っても、ポストモダンの時代にはやはりポストモダン的なエロ漫画も出てくるのであって、さしあたってここでは赤月みゅうとの作品を一例として採り上げることにしたい。赤月みゅうと作風を単刀直入に云うなら、とにかく主人公が際限なく射精しまくることである。例えば一話読み切りの「愛のメモリー」は36ページ中10回射精している。これは3.6ページに一回の割合で射精している計算になる。しかしこれは回想込みの作品だからいいとして、ハーレムを描いた「エンティエンヌ・ドゥ・シルエット」になると、カラーの4ページ中6回も射精しており、中には1ページが3つのコマで割られており、その総てのコマで射精しているというシーンもある。もっとも、これはハーレムものに付き物の制約であるという反論もあるだろうが、マンツーマンのセックスを描いたカップルものの「モラトリアム少年×少女」においても、一回のプレイ中におそらく約8回近く(正確な回数は測定できなかった)射精していることから鑑みても、赤月みゅうとの作品中の主人公は超絶絶句の絶倫の持ち主であることは疑い得ない。
 以上に見られる事態は、使用者の身体的リズムを壊乱し、一回きりの射精に支えられた単線的かつシンプルなリズム構造を廃棄し、代わりに複雑かつポリリズミックなリズム構造をエロ漫画に導入する。しかし、エロ漫画という媒体が使用者の身体性に直接依存している限りは、やはり複雑なリズム感を持った作品はシーンの中で支配的になりにくい(使用者の身体を直接改変できる技術が到来すれば話は別だが)。事実、現状のエロ漫画シーンは従来の一回性の射精に支えられた弁証法的な構造が未だに支配的だというのが私の印象である。*1
 然れども、エロ漫画というジャンル的制約に囚われないのなら話は自ずと異なってくる。実際、エロ漫画というジャンルの外に目を向けてみると、一回性の射精に囚われない、エロ漫画ならざるエロ漫画に出逢う。前記の「苺ましまろ」もその内のひとつである。

                  ∴

 なぜアニメーションは持続するのか。一枚一枚は止まっている静止絵だというのに。そこには当然「純粋持続」がなければ。あらゆる対象物を貫く、魔的な視線、<末期の眼>*2が。
 ポール・ヴィリリオによれば、ポストモダンにおいては時間の旧来のシステムが大きな変貌を遂げているという。

実際、私たちの平凡な日常生活の中のあちらこちらで、歴史の外延的な時間から、瞬間という歴史を持たない凝縮した時間への移行が最新技術を通して行われている。
(「瞬間の君臨―リアルタイム世界の構造と人間社会の行方」ポール・ヴィリリオ

 私は歴史の衰退は支持しえても、「瞬間」の特権化には首肯しかねる。むしろ私がここで代わりに提示したいのは「純粋持続」である。持続という概念を導入しなければ、アニメーション、特に日本におけるジャパニメーションの時間と運動の論理の関係をうまく理解することはできないように思われる。例えば斎藤環は、アニメという視覚メディア固有の運動性について述べた文章の中で次のように言っている。

 きわめて多くの漫画と、その影響下にあるアニメに共通する志向性がある。「無時間性」への志向である。そう、イマジネールなものとは、ほんらい無時間的なものなのだ。
(「文脈病」斎藤環

 以上のように斎藤は日本のアニメは無時間的であり、よって運動性を抑圧していると述べており、さらにアニメにおける止め絵の多様をその例証に挙げ、その反証例としての(止め絵を用いない)宮崎アニメを、時間性があり、よって運動性があるアニメとして擁護している。しかし、私見によればこれらは必ずしも正しくないように思われる。例えば、TVシリーズ「エヴァンゲリオン」22話におけるエレベーターのシーン、このカットは一枚の止め絵を約50秒間に渡り延々と流し続けるという異例のものであったが、ここには紛れもなく純然たる時間が流れていなかっただろうか。*3なるほど確かにこのカットには運動はない。だが運動性=時間性という図式はいささか単純にすぎ、両者を混同するところに生産的なアニメ批評は成り立たない。日本のアニメにおける時間性が運動性に依存しないことを示すひとつのエピソードを挙げておこう。

 日本の観客は、アメリカのように即物的はありません。セリフが合ってなくても、少々変な動きをしても、心の中で「本当はこうなっているのだ」と想像でおぎなって勘弁してくれます。雰囲気さえよければ主人公の気持ちを察して「動かないことを」追求したりしません。
 これがアメリカですと、セリフが合ってないだけでブーイングがきたり、わずかな「止め」でも映写機が壊れたのか、と劇場で後ろを振り返る人がいるほど、たえず動いてなければ気がすまない、といううるさいお客さんがたくさんいます。
(「作画汗まみれ」大塚康生

 日本におけるテレビアニメーション黎明期の、本来は東映アニメーション側の嘆きを物語るエピソードなのだが、図らずも日本人の特異な時間感覚を垣間見せてくれる。これらを単純に漫画の影響下うんぬんの議論に還元してしまうのは早計に過ぎよう。大体、前述の斎藤環テレビアニメーションにおける3コマ打ちアニメーションと東映やジブリに代表される2コマ打ちアニメーションの「差異」すら採り上げずにアニメ固有の「運動性」について論じようとしている。フレームレート8枚の3コマアニメは当然フレームレート12枚の2コマアニメより「運動性」は低い。しかしだからといって、テレビアニメーションが東映のそれより質的に低い、という風に短絡させることは無謀なはずだ*4。さらに念のためもうひとつ傍証を挙げておこう。

 ――:最終話の空港のシーンのスローは、冒険だったと思いますよ。
 平尾:ああ、スローは大好きです。延々スローとかやってたいですね(笑)。スローをやる事で、日常の風景が急に劇的な瞬間に変わるのが好きなんですよ。
 ――:でも、テレビアニメでは一番やっちゃいけない事ですよね(笑)。
 平尾:(笑)。
 ――:というか、基本的にはできなかったはずですよね。出崎(統)さんの作品に、コマ落とし的なスローはよくありましたけど。
 平尾:最終話の演出は高橋タクロヲさんなんですけど、演打ちの時に、最後のスローはコマ落ちじゃなくて、全部動かしてくれって話をしたのは自分です。1回やってみたかったんですよね。編集の今井(剛)さんには、「スローには見えない」って言われましたけど(苦笑)。
 ――:ゆっくり歩いているように見えるんですね。
 平尾:スローを表現するのは、アニメで一番難しいのかもしれないですね。
(「まなびストレート! DIRECTORS' WORKS」平尾隆之のインタビューから)

 アニメではスローモーションを表現できない。蓮實重彦はかつて映画におけるスローモーション演出の「不経済性」を指摘していたが*5、アニメにおけるそれは(枚数の蕩尽という意味でも)「不経済性」の最たるものだと云える。なぜアニメではスローを表現できないのか。それは、アニメが固有の時間性を保持しているからである。「瞬間」でも「無時間」でもない、純粋なる<持続>がアニメのスクリーンの底の底で常に流れているのである。
 補助線としてドゥルーズを援用しておくと、以上の議論はドゥルーズ「シネマ」における「運動イメージ」から「時間イメージ」への移行にほぼ当て嵌まると思うのだが、しかしこのアナロジーはあくまで近似値でしかないことに注意して頂きたい。以下、乱暴な要約を試みるが、まず「運動イメージ」とは、第二次世界大戦以前の古典的な映画を支配するイメージであり、その特徴とは一言で云って「感覚」と「運動」の一致である。上の議論に照らし合わせるなら、「時間性」=「運動性」の一致であり、斎藤環のアニメ観に近いように思われるが、念を押すようにこれらは近似的なアナロジーでしかない。しかし、第二次世界大戦の終結とともに、「運動イメージ」に代わるあたらしいイメージが現れる。それが「時間イメージ」である。それでは「時間イメージ」とはどのようなイメージなのか。國分功一郎の簡潔な要約を引こう。

 ドゥルーズは運動イメージから時間イメージへの移行を、哲学史におけるアリストテレス的時間概念からカント的時間概念への移行に重ねている。運動イメージにおいては、時間は間接的に示されるに過ぎない。つまり、行動Aから行動B、そして行動Cへという運動がまずあって、それに付随するものとして時間が現れる。ドゥルーズはこれを指して、「時間が運動に従属している」と言う。これは「運動の数」として時間を定義したアリストテレスの時間概念に対応するのに対し、時間イメージにおいては、純粋な空虚としての時間が直接に示される。つまり、「運動が時間に従属している」。これは感性の純粋形式として時間を定義したカントの時間概念に相当する。
(「ドゥルーズの哲学原理(3)――思考と主体性――」國分功一郎

 ジャパニメーション史における実践的な「時間イメージ」の導入運動としては山下清悟らによる「タイムライン系作画」を挙げることができるだろう。
山下清悟と平川哲生の対談「作画の時間、演出の時間、絶望の時間」から、松本憲生の作画を読み解いている箇所を引用してみよう。

山下  『灰羽連盟』第8話を見ましょう。この子供たちの動きは、3コマ全原画です。手前のフレーム・アウトする男の子の足が、どういうステップを踏んでるかわからないんですよね。足の軌道が見えない。
平川  ふつうの原画みたいに、足が接地して、かかとが上って、離れる、という順序を追ってない。分析的には描いてないね。
山下  実写映像の時間軸をコマ落しで見たときに、そこにされているであろうポーズを3コマごとに原画にする、という描き方。
平川  これがいわゆるタイムライン系ってやつか。たとえばディズニー作画は、なめらかな絵のつながりはあるけど、時間は見えてこない、と。
山下  ほかにも金田系とか、今石洋之さんの作画は、かっこいいポーズやフォルムで止めるためのコマ落しで、時間感覚ではないです。
平川  ざっと分類してみると、今石洋之さんの3コマ全原画は、かっこいいポーズやフォルムで止めるためのコマ落し作画。磯光雄さんの3コマ全原画は、スケジュールの許す範囲で原画の密度を高めて動きをコントロールする作画。松本憲生さんの3コマ全原画は、実写映像のコマ落しを再現する作画。

 若干の解説が必要だろう。例えば金田系や今石洋之に見られる「分析系作画」とは、要は視聴者が一番気持ちが良くなるようなタイミングを(詰めたり引き伸ばしたりしながら)調整してタイムシートに落としこむ手法であり、あえて音楽理論下へのアナロジーを試みるなら、カデンツにおけるドミナント(緊張)からトニック(緊張の解決)へのコード移行と相似である。ヘーゲル的に言うなら、「否定」→「止揚否定の否定)」という弁証法的なダイナミズムによって前へ前へと押し出すようにして運動を駆動させるという、言うまでもなく近代的なモデルによって支えられている。もちろんここにおいては「時間」は「運動」から事後的に見出されるものであり、せいぜい二次的なものでしかない。それに対して、「タイムライン系作画」はクロノス的な「時間」をベースにしており、「時間」は「運動」から完全に自律してそれ自体として流れ続ける。ドゥルーズがいみじくも云ったように、つまり、「運動が時間に従属している」。ここには純然な「時間イメージ」の現前がある。しかし、上述のドゥルーズ「シネマ」の要約でもわかるように、「時間イメージ」はカント的な時間概念であると云っており、無論カントは哲学におけるモダニズムの創始者とみなされている。なるほど確かにクロノスな単線的時間概念は近代的であり、そのような観点からすれば「タイムライン系作画」は近代主義を脱していないとのそしりは免れ難い。だが、ここで私が試みたいのは、「モダニズム」や「ポストモダン」等の情勢的かつ党派的な区分を貫く「純粋持続」の概念の提示であり、この立場からすれば「モダン」と「ポストモダン」の二分法は大した意味をなさないことをお断りしておく。
 やや逸脱するが、3コマ全原画であるタイムライン系作画によって複雑なリズム操作が失われてしまったと嘆かれる向きには、お望みなら現代ジャパニメーションにおける複雑なステップを参考までに紹介しておこう。
http://www.youtube.com/watch?v=Q23-05ZARw0=movie
上の動画の2秒~20秒間に見られるキャラクターの複雑な横揺れのステップは、その適度な脱力加減から見ても極めて黒人的といえる。アニメーター田中宏紀の描く原画には、このような横揺れのステップと肩の関節が外れたような脱力が散見され、それ自体として見ても興味深く示唆に富んでいる*6。このような黒人的な横揺れのリズムは、他にも野中正幸や濱口明など20代前半の若手アニメーターにも見られ、ヲタ芸の単純な縦ノリリズムへの黒人的感性からのアゲインストとして、今後も注目に値する。むろん、無限に微分可能な「純粋持続」がスクリーンに通底しているからこそ、これらの複雑な黒人的リズムを自由に配分しアレンジメントすることができるのであって、決して逆ではないことを改めて強調する必要があるだろうか。*7

                  ∴(補論)

 場における「純粋持続」、そのようなものがあるとしたら。 「ゆるゆり」というセカイ系アニメと「Aチャンネル」という日常系アニメの違いについてという記事で検討したことがあるのでやや重複になるが、ゆるゆりセカイ系アニメにおける「フラグメント化した場」に代わって、Aチャンネルのような「持続した場」が現れ始めているように思われる。例えば、ゆるゆり最終話のBパートは、すべてが舞台という名のスクリーン上で展開されており、「空間性」が慎重に排除されている。同じように、ゆるゆりの聖地=舞台は富山県の高岡という一応の設定だが、キャラが富山県のど田舎を歩いてたと思ったら次の瞬間には吉祥寺にワープしているなどといったことが平気で起こる。このような空間を無視したワープは、キャラが全能性と超越性によって支えられていることを図らずも意味している。これに対し「Aチャンネル」では、キャラクターはちゃんと交通機関を使って持続した場所から場所へ移動する。ここに見られるのは、「ゆるゆり」のような神性と超越性の断念であり、精神分析のタームを使えば「去勢」を経ていることを示している。以上のことから、「Aチャンネル」には場における「純粋持続」が存在していることがわかる。
 場における「純粋持続」は日常系アニメによく見られる印象を受ける。スクリーン内に現れた持続的な空間=聖地は、現実における「秋葉原」という特権的な聖地を相対化させ、複数化させる効果があるのではないか。現に、「国立」や「京都」、「鷲宮神社」など、新たな聖地は日本の至るところに現れている。アニメで町おこしという思想には必ずしも首肯しかねるが、それでも画一化した平板な地方や郊外から新たなカルチャーが生まれ出てくる契機にもなるのではないかと秘かに期待している。

*1:もう一人、ポストモダン作家を挙げるとするならば犬星をおいて他にいないだろう。彼女(?)の代表作「月見荘のあかり」は従来のいわゆる「ハーレムもの」を反転させた「逆ハーレムもの」であり、イケメンの男主人公が複数人出てくる代わりにヒロインは一人しか出てこない。必然、使用者は「どの男主人公に同一化すればいいのか」というパラドックスに直面し、自我の乖離と拡散が起こる。「特権的な一人の男主人公」というファルス的な構造を脱中心化し、多元的かつポリフォニックな読みを読者に向けて押し開くことを可能にしている、という意味で稀有な作品といえよう。

*2:「末期の眼」川端康成

*3:参考資料[http://www.nicovideo.jp/watch/sm5371606]

*4:このような論調は往々にして、虫プロが創始した省略化システムが日本のアニメの質を低落させた、というような巷に蔓延っているイデオロギーと結びつくことは言うまでもない

*5:「映画狂人」蓮實重彦

*6:参考例として[http://www.youtube.com/watch?v=_oDUVNyyL10=movie]における58秒から1分1秒のカット

*7:身体の弛緩とそれに伴う横揺れのステップ、これは以前の記事に書いた記号の弛緩化とパラレルな現象である。弛緩。それはそこから逸脱し再びそこへ戻っていく力をも含んでいる。パラノとスキゾの間を自在に往還する平衡感覚。ダンスをすること。パラダイス・ガレージは<魔界>ではなかったか?ラリー・レヴァンはまさしく「そこ」に住んでいたのだ。これらは比喩ではない。なるほど確かに馬込村時代の川端康成萩原朔太郎夫妻が主催するダンスパーティーの誘いにも乗らず一人自室に篭って小説を書いてた。しかし川端はまさしく原稿用紙の上でダンスをしていたのだ、黒人のダンスを。